平常の力
先日も、第二部第三十六講の「一日の意味」という一章を学びました。
そのはじめに、こういうことを森先生が仰せになっています。
「諸君は階段を昇るとき、まるで廊下でも歩くように、さらさらと登る工夫をしてごらんなさい」
というのです。いったい何を説いているのかと思いますが、
更に「というのも人間の生命力の強さは、ある意味ではそうしたことによっても、養われると言えるからです」
と言います。
「階段の途中に差しかかって、急に速度がにぶるようでは、それはその人が、心身ともにまだ生命力の弱い証拠と言ってもよいでしょう」
と指摘されています。たしかに長い階段ですと、はじめは勢いがよくても、途中から勢いが衰えることがあります。
ただ、このことは単に階段のことではなく、
森先生は
「この場合階段というものが、やがてまた人生の逆境にも通ずると言えるからです」
と仰せになっています。
「そこでまたお互い人間は、逆境の時でも、はたの人から見て、苦しそうに過ごすものではないとも言えましょう」
人生の逆境に遭遇しても、あたかも平時の如くさらさらと生きてゆくことが大切だというのです。
「つまり階段の途中まできても、平地を歩くと同じような調子であるのと同じように、人生の逆境も、さりげなく越えていくようにありたいものです」
逆境をいかにも苦しそうに歯を食いしばって処するのではなく、むしろニコニコ顔で爽やかに、そしてさらりと超えてゆきたいのです。
ただ、森先生は「しかしそのためには、非常な精神力を必要とするわけです。階段をさらさらと登るには、二倍の力ではなお足りないでしょう。少なくとも三倍以上の、心身の緊張力を持たればできない芸当です」
と説かれています。
それにはやはり平常の時において力をつけておかなければならないでしょう。
唐の時代の禅僧たちが、平常でよい、ありのままでよいと説かれていました。
そして破仏のような動乱の中で、実に平常のままで過ごしていましたが、それにはやはり普段の時の修行があったのだと思います。
仏教の基礎である、戒定慧の三学をしっかり修めていたからでしょう。
戒を守り、禅定を修めて、智慧を磨いて、森先生の説かれるところの「生命力」をしっかりと養っておられたからこそ、動乱に遭っても平常でいられたのだと思います。
特に「戒」は普段の暮らしの習慣です。朝起きてお経をあげる、坐禅する、掃除するなどの習慣をしっかりつけておくことが、逆境でも階段をさらさら登るように、さりげなく越えてゆけるのだと思います。
平常の力を養うことが大切です。
横田南嶺