真の善
西田幾多郎先生の『善の研究』は、よく知られた名著ですが、なかなか難しい書物であります。
それを大熊玄先生が分かりやすく講義してくれたものです。
私なども、大学生の頃に、哲学らしきものを多少かじっていた記憶が残っていますものの、あれから三十年以上にわたり、禅堂暮らしをしていて、哲学的な思考はすっかり無くなってしまいました。
哲学的な思索には、ほど遠い現状ですが、すこしでも読もうと思っているところであります。
本をいただくということは、何かのご縁があるからだと思います。
もう少し勉強しなさいという声かもしれません。
本をいただくと、最初に序文を読み、目次を見て、あとがきを読みます。それから、内容をパラパラめくってみます。
一番最後のところにあった、次の文章に心ひかれました。
「善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである。即ち真の自己を知るというに尽きて居る」
というのです。
「真の自己を知る」、これはまさしく禅で説くところの、己事究明と同じではないかと思いました。
西田先生は、更に「我々の真の自己は宇宙の本体である」と説かれています。
これは、我々が言うところに天地一杯の自己に通じるのかなと思います。
「真の自己を知れば、ただに人類一般の善と合するばかりでなくて、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。
宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである」
というのであります。
主客合一とは、自分と他とが一つになることです。
では、そうなるにはどうしたらいいかというと、西田先生は、
「而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の慾より死して後蘇るのである。(マホメットがいった様に天国は剣の影にある)。此の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。基督教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という」
と説かれています。
これを読むと、我々禅で説くところと完全に一致すると思いました。
大熊先生の解説では、
「そして、この「主・客が合一する力」を得るということは、ひとたび、私たちのこの「ニセの自己」、この世における独りよがり(エゴイスティック)な欲にまみれた自分を殺し尽くして、その死の後に蘇ることなのです。(マホメットは「天国は剣の影にある」といっています)。
このようにして初めて、真に主・客が合一する境地に至ることができるのです。
これが、宗教・道徳・美術の極意です。キリスト教ではこれを「再生」と言い、仏教ではこれを「見性」と言います」
と丁寧に説かれています。
「エゴイスティックな欲にまみれた自分」とは、盤珪禅師の説かれる「身のひいき」にほかならぬように思われす。
自我を離れて、天地と共に生かされている真の自己に目覚める、小欄で今まで説いてきたことと一致します。
大拙先生の禅の修行が根底のあるのと同じように、西田先生の思想にも禅の修行が土台になっているのだなと感じたところであります。
『善の研究』を大熊先生の講義本によって読み直してみようと思っています。
かなり錆びついてしまっている我が頭の体操になるかと思います。
横田南嶺