愛と力
「行きすぎた個人主義は、力の思ひを育てはぐくむ温床である。
なぜならば、それは自己中心的で、ひとたび外に向かって動き出し、他人を支配しようとしはじめると、はなはだ尊大に、またしばしば、はげしい手段をもって自己を主張する。」
というのです。
更に、「それに反して、愛は、相依相關の心から生まれ、自我中心・自己強調とはほど遠い。力が、表面は強く、抵抗しがたく見えながら、實はみづからを枯渇させるものであるのに反し、愛は自己否定を通して、つねに創造的である。」
力は強いように思われますが、やがては自ら枯渇してしまうというのです。
力は、自己主張であり、愛は、自己否定なのです。
鍵山秀三郎先生の日めくりカレンダーの言葉に、
「自分を 守ると 弱くなる」
というのがあります。
その言葉の解説には
「自分だけを守ろうとしたとき、人間は弱くなります。
反対に、自分以外の人を守ろうとしたとき、見違えるように強くなります。」
とあります。
力は、分別から出てくるものです。
あれとこれを分ける、そこに善と悪、強いと弱い、という風に区別をつけてしまいます。
そこから悪を退け善を求め、強いものが弱いものを攻撃し、支配するということになってしまいます。
世の中はその繰り返しなのかもしれません。
分別の世界にとどまっているかぎり、この連鎖はやむことがないでしょう。
しかし、愛は無分別の世界です。
無分別とは、大拙先生が若い頃に円覚寺で坐禅して、松の巨木と自己と一つになったという体験です。
なにも特別の禅体験でなくても、母親が無心にわが子を慈しむ心であります。自分と我が子の隔てがないのです。
分別の世界にとどまり、力に頼っていては必ず行き詰まります。
大拙先生は、
「この力の誇示のもつとも顕著な一例が、西欧の人々の自然に對する態度にみられる。かれらは自然を征服するといって、けっして自然を友とするとはいわない。
かれらは高い山に登っては、山を征服したと公言する。
天のかたに向かってある種の發射物を打ち上げることに成功すると、今度は、空を征服したと主張する。
なぜかれらは、いまやわれわれは自然とよりいっそう親しくなった、とは云わないのか。
不幸なことに、敵対観念が世界のすみずみにまで浸透して、人は「支配」、「征服」、「管制」等等を口にする。」
と西洋の考えについて所見を述べられていますが、これは今や我が東洋においても、同じことになってはいないでしょうか。
続けて、「力の観念は、人格とか、相互依存とか、感謝とか、その他さまざまの相互関係の心を斥ける。」
と示されています。
更に
「科學の進歩、たえず改善される技術、ならびに工業化一般によってわれわれがいかなる恩恵を引き出そうとも、みながひとしくその恩恵にあづかることは許されない。
なぜならば、力は、われわれ人類同胞の間にひとしく恩恵を分配しないで、それを独占しがちだからである。」
とも指摘されています。
これなどまさに今の時代でもその通りとしか言いようがありません。
分別の世界から離れるには、どうしたらいいか、そのために坐禅があるのです。しかしともすれば、坐禅が力に頼ってしまうことにもなりかねません。
無心に手を合わせて祈る心は、一番無分別でありましょう。
憎しみの連鎖から愛の関係網へと、力の世界から、愛の世界へと、転換をはからなければなりません。
横田南嶺