愛の関係網
愛なくしては、生命はおのれを保持することができない。
今日の憎悪と恐怖の、汚れた、息の詰まるような雰囲気は、慈しみと四海同胞の精神の欠如によってもたらされたものと、自分は確信する。
人間社会は複雑遠大この上ない相互依存の網の目であるが、今の息苦しさは、この事実を自覚しないところから起きていることは言をまたない
」という文章を読んで、まさに今私たちの世の中に起きていることではないかと思います。
これは、今から半世紀以上前、一九六五年に刊行された鈴木大拙先生の『禅』(筑摩書房)という書物にある言葉です。
「愛」という言葉を仏教ではあまり用いないのですが、慈悲であり、大拙先生がよく説かれた大悲にほかなりません。
更に大拙先生は、
「それぞれの個人の存在は、その事実を意識すると否とに関わらず、無限にひろがり一切を包む愛の関係網に、
何らかのおかげを被っているということであり、そしてその“愛の関係網”は、われわれのみならず、存在するものすべてを漏らさず摂取する」
と説かれています。
華厳の教えでは、因陀羅網(いんだらもう)というたとえがございます。
帝釈天の宮殿には因陀羅網という大きな美しい網がかぶせられているとあります。
その網の結び目ごとにきれいな珠が一つ一つついています。
そうすると一つの珠の光というのはめぐりめぐってあらゆる全体の珠と映りあうのです。
そして、またあらゆる珠の光が一つの珠と映りあいます。
どの珠もつながりあっているので、一つだけ取り出すということはできません。
一つの珠の光が全体の珠の光へと輝き、映りあいます。
こういうものの見方です。
そして世の中に存在している私たちのいのちも、
木や草や虫や獣にいたるまで、別々のように見えますが、
実は網の目の珠のようにつながっていて別々のものは一つとしてないのです。
お互いが支えあいながら存在するのであって一つだけ取り出すということはできません。
私という一人の人間も、あらゆる人、全体と関わり合いながら、生かされているという教えです。
その網の目全部をひっくるめて仏と言ったり毘盧遮那仏というのです。
大きな仏様のいのちとは、あらゆるいのちのつながりあった全体をいいます。
この因陀羅網を大拙先生が『愛の関係網』と表現されたのが、斬新で感銘を受けます。
そのようにみていくと大拙先生が
「実にこの世は一大家族にして、われわれ一人一人がそのメンバーである」
ということが頷けます。
この大拙先生の説かれる「愛」、「大悲」はどこから来るのでしょうか。
「この一切の相依相関を説く哲学が正しく理解される時に“愛”が目覚める。
なぜならば愛とは他を認めることであり、生活のあらゆる面において他に思いを致すことだからである」
と大拙先生は説かれています。
私たちは、自分一人単独では存在できません。他に依ってこそ成り立つものです。
相手を認めること、まわりを思いやる事、愛の関係網を自覚することこそ、今大切だと思っています。
お互いが相依相関にあることをよく理解すれば、必ず愛や大悲というものがおのずと生まれてくるのです。
この世は、愛の関係網であって、憎悪の関係網であってはならないのです。
横田南嶺