愛と力 - 其の二
「力は、われわれ人類同胞の間にひとしく恩恵を分配しないで、それを独占しがち」だという指摘がありました。
それに対して、
「愛は肯定である。創造的肯定である。愛はけっして破壊と絶滅には赴かない」
と対比させて説かれています。
「なぜならば、それは力とは異つて、一切を抱擁し、一切を許すからである」
大拙先生は、「すべてを知るは、すべてを許すなり」 というフランスの諺を好まれていて、「これがわかれば何もいらんぞ」とまで仰せになっていたそうです。
そして、「愛はその対象の中に入り、それと一つになる」と説かれています。
この言葉に触れると、西田幾多郎先生の『善の研究』にある一文を思い起こします。
西田先生は、
「我々が物を愛するというのは、自己を棄てて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起こるのである」
と明言されています。
「我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。
月を愛するのは月に一致するのである。
親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起こるのである」
という、このような愛を説かれているのです。
対象を分別して、好き嫌いという相対概念によって、好きなものを愛するというのではないのです。
決して盲目的な愛とは異なるものです。
その点について、大拙先生は、
「愛は盲目といふが、盲目なのは愛ではなくて、力である。
けだし、力は、おのれの存在が何か他のものに依ることをまったく見落してゐる。
それは、自己とはくらぶべくもない大いなる何ものかにおのれを結びつけることによって、はじめてそれ自身であり得ることを認めようとしない。
この事實を知らぬままに、力は自滅の淵に一直線に飛び込んでゆく」と説いてくださっています。
自分は他によって生かされていることを自覚することによってこそ、愛があるのです。決して自己中心的なものではありません。
ですから大拙先生は、
「愛は信頼する。つねに肯定し、一切を抱擁する。愛は生命である。
ゆえに創造する。
その觸れるところ、ことごとく生命を與へられ、新たな成長へと向かふ。
あなたが動物を愛すれば、動物はしだいに賢くなる。
あなたが植物を愛すれば、あなたは植物の欲するところを見拔くことができる。
愛はけっして盲目でない。それは無限の光の泉である」
と説いて下さっています。
愛は無限の光の泉であるとは素晴らしい言葉です。
この「愛」とは、自己中心にものをみるのではなく、何か大いなるものに生かされていることを自覚し、お互いは他に依ってこそ存在するものだと目覚めて、まわりと自己との区別をせずに、無心に起こる慈愛の心であります。
逆に、自己中心的であり、自分だけ独立して存在していると思い込み、自分とまわりのものを区別して、好きなものだけを貪り、我が物としようとするのが「力」なのです。
そして「力」は自滅の道、「愛」は光の泉であると肝に銘じたいものです。
横田南嶺