冥加に余る
「息がでているだけで満足というところに立っておりますと、後からくるものはおつりばかり、過分なものばかりでして、過分なものに対して頭を下げることが出来ると思いますね」
という言葉でした。
そのあとに、更に米沢先生は、
「あまり自分を高く買いかぶっておりますと、不足ばかり起こって満足ということがないと思いますわ。
息がでるだけで、もう有難いということになりますと、後から来るものはもう恵まれたものばかり、分不相応のものばかりであって、これを昔の人は冥加に余ると申しました。
冥加に余るというこの言葉、この節の若い方々はご存じない言葉でありますが、これはどうでも知っていていただきたい言葉でございます」
と続けて仰っています。
さて、この「冥加(みょうが)に余る」という言葉、たしかに今はあまり使われないように思われます。
「冥加」を『広辞苑』で調べますと
冥加とは
①知らず知らずのうちに神仏の加護をこうむること。
目に見えぬ神仏の助力。冥助。冥利。
②お礼。報恩。
という意味が書かれています。
それから「冥加に余る」というのも『広辞苑』にありました。
「過分な加護を得て有難い。身に過ぎたもてなしを受ける」
という解説でした。
「冥加」は「冥助」とも言います。
冥助を『広辞苑』で調べると、
「目に見えない神仏の助力。冥加」
と解説されていました。
知らず知らずのうちに、私たちは神仏の加護をいただいています。
その何よりの証拠が、こうして息をしているということでしょう。
ご飯をいただくということでしょう。
目が見えているということでしょう。
とりわけ、このたびの新型コロナウイルス感染症の影響で、私などは、あれほどびっしりと書き込まれていた予定が、完全に消えてなくなりました。
私など、あれこれ活動していたつもりでいましたが、それらは不要不急のことであったのです。
「不要不急の外出は自粛しましょう」の一言で消えたのです。
そこでどくだみ(十薬)を摘んではお茶にしていただいています。
これだけでも「冥加に余る」ものです。
それに比べて、医療従事者の方々のご苦労はたいへんなものです。有り難い、申し訳ないという思いで一杯です。
宅配の方々もたいへんです。
学校の先生も、休みになってのんびりどころが、オンライン授業でたいへんなご苦労のご様子です。
そんな方々の事を思いますと、私など不要不急の人間が、毎日ご飯をいただけるだけでも、実に「冥加に余る」のであります。
せめて、謙虚に生きなければならないと思います。
横田南嶺