十薬
取ってしまおうと思って、ふと、田舎の祖父が、どくだみのお茶を作っていたことを思い出しました。
どくだみとは言わずに、「十薬」と喚んでいました。
祖父はたくさんの十薬を取ってきては、干してお茶にして煎じて飲んでいました。
子どもの頃、十薬を取るのを手伝ったことも思い出しました。
祖父の家に行くと、十薬のお茶の香りがしたことも覚えています。
一本一本丁寧に取って、よく洗って天日に干して、適当に刻んでお茶にして、煎じて飲んでいます。
なつかしい味わいであります。
どくだみは、寺にとっては雑草の代表格のように扱われ、目の敵にされることが多いのです。
先日もある和尚と話をしていて、最近寺のどくだみをようやく根こそぎ取り除いたと、ご自慢の様子でした。
そんなどくだみですが十薬というくらいですから、体にもいいのではないかと思っています。
『碧巌録』にこんな文殊菩薩の話がございます。
文殊菩薩が、ある時に善財童子に、薬でないものを取って来なさいと命じました。
そう言われて、善財童子は、薬でないものをさがすのですが、薬にならないものはないことに気がつきました。
そこで帰ってきて文殊菩薩に、薬でないものはありませんと申し上げました。
文殊菩薩は、では薬を取って来なさいと言いました。
善財童子は、そこに生えていた一枝の草を取って渡しました。
文殊菩薩は、その草を取り上げて、この薬はよく人を殺し、よく人を活かすと言われました。
という話であります。
どんな草でも薬になるということでしょう。
しかし使いようによっては、どんな草も毒にもなるということです。
薬と毒は、同じことです。トリカブトなどは猛毒でありますが、使い方によっては漢方薬にもなるのです。
この話から、薬でない草はないというのと同じように、仏でない人はいないのです。
しかし、どんな人でも、草が毒にもなれば薬にもなるように、その心次第で、仏にもなり、鬼もなるのです。
縁側で、干したどくだみを刻みながら、そんな話を思い起こしていました。長閑な日であります。
山頭火にはどくだみを詠った句があります。
しづかな道となりどくだみの芽
川端茅舎にもどくだみを詠った句がありました。
どくだみや 真昼の闇に 白十字
このところ鈴木大拙先生の本を読んでいるのですが、大拙先生の難しい内容の本を読むよりも、静かにどくだみを刻んでいる方が無心になれる気がしました。
そこで私も一句、
大拙を 忘れてどくだみ 刻みおり
横田南嶺