朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり
『論語』に「朝(あした)に道を聞かば、夕に死すとも可なり」という言葉がございます。岩波文庫の金谷治先生の訳によれば、
「朝に正しい真実の道が聞けたら、その晩に死んでもよろしいね」という意味です。
この一語を今北洪川老師は、『禅海一瀾』に取り上げておられます。
その中で、中国の禅僧と儒学者の問答を引用されています。
黄龍慧南禅師に、周敦頤(しゅうとんい)という学者がお目にかかりました。
黄龍禅師は、この「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」との一語を引いて、
それを得ることができたなら、その晩に死んでもかまわないという、
その道とはどのようなものかと問いました。
さすがの周敦頤も躊躇して答えることができませんでした。
この道とは何か究めていって、
周敦頤は後に仏印禅師のところに行って問答した折りに、
道とは何かと問うと、仏印禅師は
「満目の青山、看るに一任す」
と答えられました。
一瞬何のことか戸惑うと、仏印禅師は呵々大笑されました。
そこで気がついたということが記されています。
道とは何か、遠いところに求めたり、特別深淵なる道理のように思いがちであります。
しかし、そんな遠い話ではなく、
いま目の当たり一面の青い山、これを自由に眺めることができるのを誰が妨げることがあろうかというのです。
中川宋淵老師というお方が、長らく入院されていて、
ようやく退院でき寺に戻られた折りに、
「生きてこの青葉若葉の日の光」
という一句を作られたといいます。
これはもちろんのこと有名な松尾芭蕉の
「あらとうと青葉若葉の日の光」
という句が元になっています。
生きてこそ、いのちあればこそ、この青葉若葉の山々を目一杯に眺めている
この喜びと感動、これこそ生きた道そのものであります。
横田南嶺