「さわる」と「ふれる」
別々の場所にいても、そこに何か人と人とが通い合うものを作れるのではないだろうか。
いや、もっと言えば人としての心の深いところで、通じ合っているところを見出すことをすべきではないだろうかと。
多くのお寺や、特に若い和尚様方などでは、オンラインでの法話や坐禅会などの活動に取り組んでおられます。
これなども、やはり離れていてもお互いに通じ合う、新たなつながりを求めてのことでありましょう。
しかしながら、オンラインだけに頼り過ぎてしまうと、これは電気が途絶えてしまったときに、全く役に立たなくなってしまいます。
私は、いつも何かを便利だなと思って使いながらも、同時にこれが無くなってもだいじょうぶかということを考えています。
ちょうど、届いた私ども寺院の情報誌に、若松英輔先生が寄稿をされていました。
若松先生が、寺院向けの情報誌に、何を書かれているのか気になって真っ先に拝読しました。
このコロナウィルスも感染を防ぐには、近づかないこと、触らないこと、群れないことだと言います。
しかし、若松先生は、「さわる」ことと「ふれる」ことは違うと仰せです。
同様に、「むれる」と「つどう」との間には違いがあると指摘されています。
どういうことかなと思って読み進めると、「さわる」というのは触覚的に接触することを指します。
「ふれる」は、触覚的な意味に使うこともありますが、「心にふれる」「琴線にふれる」という使い方もします。
「ふれる」には、「さわる」ことができないものの存在を感じようとする試みを指すと書かれています。
「むれる」は大勢の人が群れをなすこと、それに対して「つどう」は必ずしも同じ場所に群衆することを指すのではないというのです。
なるほど、さすが若松先生の洞察は深いものがあるなとしみじみ感じ入りました。
そこで若松先生は、こう説かれていました。
「人は同じ祈り一仏教であれば経文になる一を唱えることによって、異なる場所、異なる時間にそれを行っても、「おもい」によって「つどう」ことができる」と。
私も漠然と感じていたことを実に明確に言語で表現してくださって、深い感銘を受けました。
オンラインを使っても、オンラインに頼ってしまうのではなくて、本質的に人の心にふれて、人が同じ思いによってつどうことができる。
そのことを確かめるために使うものだということをはっきりと認識しなければならないと思いました。
そうでないと、今度は停電した時に、うろたえてしまいますから。
横田南嶺