さとり
釈宗演老師の『禅海一瀾講話』のなかに、おもしろい話がでてきます。
少々長いのですが引用します。
これも或る書物で見た。飛騨の国あたりで、檜の版木板を造る所の人が、或る日、例に依って山の中に入って、
そうしてそれを拵えようと思う中に、向うを見ると古い年を経た杉が一本ある。その後ろに何物か居るかと思うて、
眼を注いで見ると、山伏の姿をした者が一人立って居る。
これが即ち世に謂う天狗というものであろう、この怪しい人間が即ち天狗であろうと、心にそう思って眺めたらば、
その山伏らしい人間が声を荒らげて、「おぬしはおれを捉えて、怪しい天狗じゃと思うて居るな」、とこう云うた。
それからまたその木挽(きこり)が、こいつはどうも怪しい、是れはぐずぐずして居ってはいけぬ、早くこの仕事を片附けて家に帰ろうと、
こう心で思うたらば、またその山伏が直ぐに、「おぬしはおれが怪しいとこう見て、早々此処を片附けて家に帰ろうと思うて居るな」とこういうて、
天狗らしい奴が、こっちの心で思う通り、向うで答えた。
それから早々日も暮れるし、こんな所にぐずぐずして帰ってはいけぬと思って、その版木板を片附けようとして、何か縄で括ろうとする拍子に、
縄が切れて、一枚の版木板が山伏の鼻面に当ったと思うて見ると、その怪し気な人間がまたこういうことを言うた。
「貴様は一向気の知れぬ奴じゃわい」、こう言うたかと思うと、その山伏の姿は掻き消すが如くに無くなった。
これは或いは拵えた話であるかも知れぬが、なかなか面白い。
この話は、鈴木大拙先生も『禅と日本文化』の中で説かれています。
同じような話であります。
大拙先生の説かれているのも、現代文にして紹介します。
一人の樵夫が奥山でせつせと樹を切つていました。そこに、さとりというたいそう珍しい動物が現れました。
さとりという動物は、人の心を読むことができました。
樵夫は、さとりを生捕にしようと思いました。
さとりは、「お前はおれを生捕りにしようと思つているね」と言いました。
驚いて言葉もでないとでいると、さとりは「そら、お前は今びつくりしている」。と言います。
益々驚いた樵夫は斧で一撃をくらわして打ち殺そうと思いました。
するとさとりは、「やア、お前はおれを殺さうと思っているな」と言いました。
樵夫はどぎまぎして、こんな奇妙な動物を捕まえるのはあきらめて、自分の仕事を片付けようと思いました。
するとさとりは、「そらとうとう、お前はおれのことをあきらめてしまったナ」と言いました。
樵夫は、どうしてよいか、わからなくなりました。
そしてあきらめて、斧を持って、もはやさとりのことなぞ気にも掛けないで、勇気を出して一心に、再び樹を切り始めました。
そうして一心に樹を伐っていると、偶然に斧の頭が柄から飛んでさとりにあたって、さとりは死んでしまいました。
という話です。
古くから伝わる話のようです。
ここで大事なことは、さとりが死んだことです。
さとりが気になっているうちは、まだ駄目なのです。
一心不乱に一つことに打ち込んでいて、さとりすらも忘れている時、さとりは死んで姿を消すのです。
死んださとりをつかまえて飾っても仕方ありません。
魚の魚拓や動物の剥製ならまだそれなりの意味があるのでしょうが、さとりの死骸を大事にしていても無意味です。
でもけっこう多いのです、死んださとりを大事にしている人は。
さとりだなんだ、忘れるくらいに一つのことに打ち込むことです。
さとりが気にならなくなった時こそ、安心なのです。
本当に生きたさとりなのです。
横田南嶺