八風吹けども
「八風吹けども動ぜず」という禅語があります。
八風が吹いても揺らがないものとは何でしょうか?
釈宗演老師の『禅海一瀾講話』に、八風の説明が出ています。
八風とは「利衰毀誉称譏苦楽」の八つです。
「利」とは「凡そ我れに益するものをなづけて「利」と為す」というのです。
自分のとって都合のよい利益をもたらすものが「利」です。
次に「衰」とは「我れに減損するを名づけて「衰」と為す」のです。
自分にとって、利益をそこなうのが「衰」です。
「毀」とは「陰に毀られること」、かげで悪く言われることです。
「誉」は、「陰に讃美せらるること」で、かげでほめられることです。
「称」とは、「陽に讃美せられ」ること、表だってみなから褒め称えられること。
「譏」とは「陽に誹刺せられ」ること、みなから誹(そし)りをうけること。
「苦」とは「逼迫の義で、悪縁悪境に遇うて身心を逼迫する」の「苦」です。
悪い縁に遇い、逆境に遇って身も心も悩み苦しむことです。
「楽」とは「歓悦の義で、好縁好境に遇うて身心を適悦する」ことです。
都合のよい状況や条件を与えられて、身も心も喜ぶことです。
『禅海一瀾講話』の説明によれば、
迷いというのは、本来の清らかで明るい心を見失ってしまい、
この八つの風に朝から晩まで吹き飛ばされて、漂わされて、
疑いから疑いに入り、暗いところから更に暗いところに落ちてしまうのだというのです。
そうすると、「七情」といいますが、「喜・怒・哀・懼(く)・愛・悪・欲」という感情に自らがさいなまされるのです。
しかしながら、『法句経』の第81番に
「一かかえほどの盤石(いわいし)、
風にゆらぐことなし。
かくのごとく、
心あるものは、
そしりとほまれとの中に、
心うごくことなし。」
とありますように、盤石は風に揺らぐことはありません。
私たちの本来の心は、盤石のようなものなのです。
ところが、風に揺らいでしまうと思って取り乱してしまうのです。
では、どうすればいいか。
まず、風が吹いていることを認めます。そしてどんな風が今吹いているのかを観察します。
これだけでも、少しは落ち着きを取り戻せるものです。
そこで、揺らぐことのない本心に目覚めるのですが、
まず「南無観世音菩薩」と心に念じてみます。
すると、心が落ち着き、本来の慈悲の心が目覚めます。
観音さまを念ずれば、水にも溺れず、火にも焼かれずと『観音経』に説かれていますが、
これは慈悲の心は、どんな水にも火にも風にも揺らぎもしないことを表しています。
あるいは、手を合わせて祈ることによって、落ち着きを取り戻し、本来の慈悲の心に目覚めることができます。
もちろんのこと、坐禅して本来の心に目覚めるのは一番よいのですが、
観音さまを念ずることも、手を合わせて祈ることも、八風に揺らぐことのない心に目覚めさせてくれるのです。
横田南嶺