観音さま
延命十句観音経をお唱えして祈る動画を作りましたところ、いろんな方から反響をいただいています。
有り難いことであります。
山尾三省さんの『観音経の森を歩く』を繙いています。
冒頭に、「観世音菩薩」と題した詩がございます。
観世音菩薩 というのは
世界を流れている 深い慈愛心のことであり
わたくしたちの内にも流れている ひとつの
深い慈愛心のことであるが
いつの頃かから
この世界には そのようなものは実在しないと
わたしたちは考えるようになった
それがなくては
この世界も わたくしも 一刻も成り立ちはしないのに
わたしたちは それを架空のものと
考えるようになった しかしながら
一人の人が ぼくに喜びを与えてくれるならば
その人は 観世音菩薩なのであり
一本の樹が ぼくに慰めを与えてくれるならば
その樹は まごうかたなく観世音菩薩なのである
あなたが清らかな水を飲んで おいしいと思うならば
その水が 観世音菩薩なのであり
観世音菩薩の像に接して やすらかな気持になれば
その像もまた むろん観世音菩薩である
……(野草社『観音経の森を歩く』より)
という詩です。
以前にも読んでいた本なのですが、ふと思い立って読み返してみると、実により一層心にしみわたってきます。
祈りについても書かれています。
「人間というのは希望を持つ生物である。希望が強くなると、それは願いに変わる。
願いが強くなると、それは行為となる。行為の究極は祈りとなる。」
というのです。
山尾さんは
「死という不可避の事態を前にして、それを超えたいと希望し、願い、行為してきた私としては、
最後にたどりついた場がその祈りであった」
と言います。
最後は祈りという言葉は重いものです。
山尾さんは更に
「花でもよい、人でもよい、ひとつの対象を前にして、胸の内で(試みにでも)心から南無観世音菩薩と唱えてごらんなさい。
唱える前と唱えた後とでは、世界は明らかに異なっており、
唱えた人は目前に、それまでとは別の世界が存在していることに気づかされるだろう。
対象の花なり人なりに秘められてある観音性(愛、慈悲、慈愛、同悲同苦)が、
唱えられると同時に発動して、そこにひとつの花という観音、一人の人という観音として出現してくる。」
というのであります。
「一日に八万四千もの想いにかられるという人間の心のすべてを、観世音を念じて過ごすことなどもとよりできないが、
その内のひとつでも二つでもの心を南無観世音菩薩と念じるならば、
そこに観音性世界はたちどころに出現することを、
万人が万人の立場において太陽が昇るように明らかに検証できるであろう。」
と説いてくださっています。
普段自分でも思って感じていながらも、言葉にすることが難しいところを、山尾さんは、詩人独自の感性で表現してくださっています。
祈りというのは、なにも特別なことをしなくても、
空を仰いで「南無観世音菩薩」と唱えるもよし、お月様に手を合わせて「南無観世音菩薩」と唱えるもよし、
花の咲いたのを見て「南無観世音菩薩」と唱えるのもよいのです。
「南無観世音菩薩」と唱えなくても、月に花に手を合わせるだけでも、すばらしい祈りなのです。
祈ることによって、そこにたちどころに「祈りの世界」が現れます。
慈愛の世界が現れるのであります。
冒頭の詩の最後は
観世音菩薩というのは
世界を流れている 深い慈悲心であり
あなたの内にも わたしの内にも流れている
ひとつの 深い 慈悲心のことなのである
と結ばれています。
南無観世音菩薩
横田南嶺