しあわせもの
数日前に、自分の住まいの縁側で足をすべらせてしまい、手に擦り傷を負いました。
擦過傷ですから、たいしたことはないのですが、化膿しないように消毒だけしておきました。
それでも、水に触れるとしみるものです。
しかしながら、一日二日と経つうちに、皮膚は自然ともとの通りに治ってゆきます。
この頃は時間の余裕がありますので、そんな傷が治る様子もしみじみと観察していました。
そして安積得也さんの詩集『一人のために』にある詩を思い起こしました。
この眼があいて
自然が見える
しあわせものと僕を思う
この耳が澄んで
小鳥がきこえる
しあわせものと僕を思う
この傷がなおって
このくわがにぎれる
しあわせものと僕を思う
(安積得也詩集『一人のために』より)
この詩の通り、この傷がなおって鍬が握れるのであります。
折から五木寛之先生の『大河の一滴』が再び注目されているというのを耳にして、書架から取り出して読み返していました。
すると、次のような一節が目に入りました。
「生きるために私たちが、目に見えないところで、どれほどの大きな努力にささえられているか。
自分の命がどれほどがんばって自分をささえているか。
免疫というはたらきもそのひとつでしょう。
私たちのなかにはいりこんでくる微生物とかウイルスといった非自己に対して、
私たちが遊んでいるあいだも寝ているあいだも休むことなく、体のなかでミクロの闘いをくり返しつつ、
私たちの健康を維持しようとする営みが日夜、行われている。
私たちの体に酸素を補給し、養分を補給し、血液が流れ、リンパ球が活躍し、
そんなふうにして、物としての存在だけでも、私たちが自分で意識していることの百万倍ぐらいの努力が、
この小さな体のなかで行われながら、ぼくらは一日生き、十日生き、十年生きるわけです。」(『大河の一滴』より)
「ウイルス」という文字が目についたのですが、読んでいると実にその通りだなと思い知らされます。
かつては、講演に法話に、執筆に来客にとそれこそ分刻みの日を送っていたので、
たまに境内でゴロゴロしている猫をみると、「猫はいいな」と思ったものです。
ところが、この頃は一切の仕事が無くなってしまい、気がついたら自分が「猫」の状態になっています。
食事をいただいて、掃除くらいはしますものの、手紙の返事を書いては、駅前のポストに出しにゆくくらいです。
なにもしないで申し訳ないなと思っていると、先の『大河の一滴』のあとには、
「人間は一生、なにもせずに、ぼんやり生きただけでも、ぼんやり生きたと見えるだけでも
じつは大変な闘いをしながら生きつづけてきたのだ、というふうに、ぼくは考えます。
事業に失敗したり、あるいは犯罪に走って仮に刑務所の塀のなかで一生を送るような人生であったとしても、
それはそれで人間の価値というものには関係く、やはり尊い一生であった、と、ぼくは思います。」(『大河の一滴』より)
と書かれていまして、私如きも生きているだけでよしとしようと思ったのでした。
横田南嶺