明徳を明らかにする
釈宗演老師の『禅海一瀾講話』を読み返しています。
この本は二年前の釈宗演老師百年遠諱の記念に復刊したものです。
小川隆先生のご尽力で、綿密な校正と語注をつけていただいて、刊行できました。
私も解説を担当し、何度も読み返したものでした。
校正のためにも繰り返し読んだものです。
あまり何度も読んでしまうと、刊行されてからしばらくは本を開く気にはならないのです。
しかし、時を置いて読み返すと、また味わい深いものです。
『禅海一瀾』は今北洪川老師が、儒教の言葉を禅の立場から解釈した書物といっていいでしょう。
それを釈宗演老師が解説されているのです。
巻下のはじめには、『大学』にある
「大学の道は、明徳を明らかにするにあり、民を新たにするにあり、至善に止まるにあり」
というところを洪川老師独自に解釈されます。
「明徳」とは、我が本心の変名であるとされ、名付けようもなく、目で見ることも、耳で聞くこともできないので、
仮に「明徳」と呼んでいるのだとされています。
釈宗演老師に解説によれば、それは
「我々が先天的に持っているもの」
だというのです。
明徳とは何かを究明しようとされたのが、盤珪禅師です。幼少の頃、『大学』を学び、明徳とは何か、決死の覚悟で坐禅して終に大悟されました。
それから盤珪禅師は、みな人は生まれながらに仏心を具えているのだと説き続けられました。
盤珪禅師にとっては、明徳と仏心とは名が異なるのみで一つのものなのです。
そこで「明徳を明らかにする」とは、本来持って生まれた仏心に目覚めることにほかならないことになります。これを「自覚」と申します。
さらに自らこの本来の心即ち仏心を明らかにしたならば、人々にも気がつかせてあげることが「民を新たにする」ことだと解釈されます。
これを「覚他」と申します。
もちろんのこと、儒学においてはさまざまな解釈がなされているのですが、洪川老師の受け止め方です。
更に、その覚りが完全になることが「至善に止まる」ことです。これを「覚行円満」と申します。皆が幸せになる世界です。
そこで、
「明徳を明らかにし、民を新たにし、至善に止まる」
とは、自ら本来具わっている仏心に目覚め、人にも目覚めさせて、皆が幸せに生きる世界を実現するということになるという解釈であります。
そのためにどうすればいいのかと言えば、「止定静安慮」という五つの方法があるのです。
「止」とは揺れ動いてやまないお互いの心を一つのことにとどめることです。即ち集中させるのです。
坐禅では、呼吸を数えることに集中させます。
すると心が「定」まるのです。安定します。どっしり落ち着いてきます。
安定すると「静」かになります。深い静けさが生まれてきます。
静かになると、「安」らかになってきます。安心して落ち着いていられるようになります。
そうなってこそ「慮」ることができます。正しい智慧、判断ができるようになるのです。
そこではじめて、雲に覆われていた月が現れるように、「明徳」がはっきりするというのであります。
という風に、『大学』という儒教の書物を、全く禅的に洪川老師は解釈されるのです。
まず揺れ動いてやまない心を集中させて、安定させて、静かになって、安らかに落ち着いて、そんな心になって正しく物事を判断してゆく、
そうすれば本来の心が明らかになり、まわりの人たちにも伝えられ、皆が幸せにになるのだというのであります。
何かと動揺してしまうことの多い昨今でありますが、呼吸を数えるなり、心を一つのことに集中させ落ち着かせ、
「明徳」を明らかにして、そのうえで判断し行動したいものであります。
ちなみに、四月十五日、『禅海一瀾講話』
横田南嶺