祈ることの大切さ
太古より人は祈ってきました。人の歴史は祈りと共にありました。
人間というのは、大自然の前ではもろくはかないものです。とても抗えるものではありません。
自然の一分だから、「自分」というのだという話を聞いたことがあります。
大自然の一分身に過ぎないのです。
ですから、嵐が吹けば祈り、日照りが続けば祈り、病になれば祈り、疫病がはやれば祈ってきました。
しかしながら、科学の発達と共に祈る心は薄らいできたように思えます。
てるてる坊主を作って、お空に向かって、「明日天気になれ」と祈るまでもなく、雨雲の位置までわかってしまいます。
病気でも、昔は原因もわからず治療の方法も無いので、ただ祈るしかありませんでした。
今は病のしくみが分かり、その治療法も確立されていると、祈る心は薄らいているようにも思われます。
それでも、先日知人ががんの手術をなされたときに、
とある和尚が、その手術の時間に祈っていますよ と言ってくださって、
それで心が落ち着き安らいで、大きな力を得た思いがしたと言っていました。
祈ることは、お互いの心を安らかにし、大きな力を生み出すものです。
ついつい祈るなどというと、何かいかがわしいことのように感じられるのかもしれませんが、謙虚な祈りは大切なものです。
東日本大震災の後などは、この「祈り」の大切を痛感したのでした。
それが、この頃は私自身、コロナウィルスの情報にばかり関心がいってしまい、祈る心が薄らいできているなと感じていたところ、三人の和尚様から祈りの大切さを改めて教えられました。
一人は、京都清水寺の大西英玄さんです。
先日お手紙がとどいて、なにごとかと思って封を切ると、
「一刻も早い世相の安寧と困難に直面している方々の快復を祈らせて頂く」というお手紙でした。
更に飛騨高山の和尚様からは、河合隼雄先生の『聖地アッシジの対話 聖フランシスコと明恵上人』という本のコピーを送っていただきました。
そこに河合先生が、
「やはり中心におかれているのは祈りですね。それは現代人が一番忘れたり、軽んじたりしていることではないでしょうか」
と書かれていました。
そうだ「祈りだ」と思っていたところ、
建長寺派の東光禅寺の和尚様が、臨済宗で読むお経のなかで、
疫病退散の為などに読まれているお経を唱えて祈る動画を作成しているという話をうかがいました。
三人の和尚様は皆、普段から私も尊敬もうしあげている方々ですが、皆私よりもお若いのであります。
若い和尚様方が「祈る」ことの大切さを感じて行動されていることに深い感銘を受けました。
これは、のんびりは畑を耕すだけではいけないと思い、祈ります。
震災のあとには、大勢皆で集まって祈ることができましたが、今は集まれない状況ですので、東光禅寺の和尚様にならい動画を作成しようと思いました。
なんのお経を読もうかと考えましたが、やはり多年力を入れてきた『延命十句観音経』だと思い、収録しました。
近日中にご紹介できると思います。
もう一度、一介の僧となって祈ります。
横田南嶺