装うこと
管長という役職は、終身制ではなく、任期があります。
円覚寺派の場合、一期五年であります。
平成二十二年四月一日に、円覚寺派管長に就任して、これで二期十年を務めたことになります。
この四月一日は、三期目に入る日なので、円覚寺の山内の和尚様方に、
二期十年のお礼と三期目もよろしくお願いします と挨拶にまわりました。
雨の中を、一ヶ寺ずつお参りしてご挨拶申し上げたのでした。
意外にも、二期十年が終わったことなど意識もしていない和尚様や、もう十年ですか、あっという間でしたね と言われる和尚様もいらっしゃいました。
こちらは重い荷物を担って、一歩一歩山を登る思いで十年を務めましたので、そのような 気がついたら十年とか、あっという間の十年 という感覚は全くないのです。
ようやくです。よくここまで登れたなという思いなのですが、重荷を担って登っている当人と、傍からご覧になっている方とでは随分感覚が異なるのだと思いました。
それにしても、更にもう一期五年を頑張らねばなりません。
雨の中を、各寺院をまわって戻ってくると、毎月送ってくださる冊子を読んでいました。
黒住教の方が毎月発行しいているものですが、いつも参考になることが書かれています。その中に
「~そう」とは「装(よそお)う」こと
という見出しの一節がありました。
引用しますと、
「偉そうな人、本当に偉いわけではないけど、偉いと見せかける人は結構いるものです。
本当に偉い人は、偉そうにする必要はありません。
それは、誰もが「偉い」と認めているからです。
そうでない人が周りからの尊敬を得ようとすると、装うことしかないのです。
装うということは、本来の自分の姿を抑え込んでいるということです。
それは苦しみを伴うものです。
自然に振る舞うことで気持ちが楽になるものです。
そのことを忘れたくないものです。」
というものです。
この文章はわが身に引き当てて考えさせられました。
私ども世界においても、禅僧であることを装っているなと感じられる方がいらっしゃいます。
それはそれでご立派なのでしょうが、どうも無理があるように思われます。
装うことをやめて、自然に振る舞う、そしてそれでいて道にかなっているというのが、馬祖道一禅師の説かれた「平常心是れ道」ということであろうと思いました。
装うことを、馬祖禅師や臨済禅師などは「造作する」と表現されたのだと思います。
装うことをしないとは、造作しないことであり、平常であり、無事であるのです。
なかなか容易なことではありませんが、
三期目にあたり、「偉そうにする」ことだけは避けなければならないと自ら戒めています。
横田南嶺