目がさめてみたら
東井義雄先生の言葉に
目がさめてみたら
生きていた
死なずに生きていた
生きるための
一切の努力をなげすてて眠りこけていた
わたしであったのに
目がさめてみたら
生きていた
というのがあります。
致知出版社の『東井義雄一日一言 いのちの言葉』にある言葉です。
目がさめてみたら生きていたということに、驚きと感動を持つことなど、お互いにあるでしょうか。反省させられます。
東井先生は、この言葉の最後を
生きていた
いや 生かされていた
と結んでいます。
お互いの迷いや苦しみを引き起こす原因は、お互いの貪り、瞋り、愚癡であります。
そして、その根本は、自我であります。
自我というのは、すべてはうつりかわるにもかかわらず、いつまでも同じ自分があり続けると思い、
すべてはつながりあっているにもかかわらず、自分だけで生きてるように勘違いしてしまっていることです。
我々の修行は、坐禅して自我を無くす努力をするのですが、その修行がまた自我を生み出してしまいかねません。
「オレは、こんなに修行しているのだ」
という自我を生んでしまいかねないのです。
そのような自我の愚かさに気づくことこそが修行の大切なところです。
時には、山に登ったりして、大自然のふところに抱かれてみると、いかに自分など小さく、はかなく、もろいものであるか身にしみます。
なにもわざわざ外に出掛けて山に登らずとも、大地に支えられ、大気に包まれているから、今呼吸できているのです。
そして眠っている間も、生かしてくださっている大いなるはたらきが、この身の上に現れているのであります。
そんな風に感じてみると、お互いに小さくはかない者同士、いたわり合う気持ちが湧いてきます。
横田南嶺