なにかわたしにでも
連日、新型コロナウィルスに関する報道がなされています。
こんな状況だからこそ、何かできることはないかと思って、試みたのが「一口法話」であります。
法話というのは、聞く人があってこそ、成り立つものですが、誰もいないところで、カメラに向かって法話をするというのは難しいものです。
それでも、何かできることはないかと思って始めてみました。
意外にも、よかったというご感想やお手紙を頂戴して、やってよかったと喜び、感謝しています。
どういう気持ちで始めたか取材したいという依頼も受けています。
有り難い反響です。
坂村真民先生に、「なにかわたしにでも」という題の長い詩があるのです。
『坂村真民全詩集』の第五巻に収められています。
読めばよく分かり、なにも解説はいらないと思います。
清家(せいけ)さんというと、珍しい姓だと思われますが、愛媛の宇和島近辺には多い姓です。
真民先生が、ラジオの人生読本で講話された折にも、四国で忘れられない人として語られていました。
なにかわたしにでも
”なにかわたしにでも
できることはないか″
清家直子さんは
ある日考えた
彼女は全身関節炎で
もう十年以上寝たきり
医者からも見放され
自分も自分を見捨てていた
その清家さんが
ある日ふと
そう考えたのである
彼女は天啓のように
点字のことを思いつき
新聞社に問うてみた
新聞社からわたしの名を知らされ
それから交友が始まった
彼女は左手の親指が少しきくだけ
そこで点筆をくくりつけてもらい
一点一点打っていった
それから人差指が少しきき出し
右手の指もいくらかずつ動くようになり
くくりつけなくても字が書けるようになり
一冊一冊と点訳書ができあがり
今では百冊を越える立派な点字本が
光を失った人たちに光を与えている
″なにかわたしにでも
できることはないか″
みんながそう考えたら
きっと何かが与えられ
必ず広い世界がひらけてくる
年中光の射さない部屋に
一人寝ていた彼女に
手紙がくるようになり
訪ねてくる人ができ
寝返りさえできなかったのに
ペッドに起きあがれるようになり
あったかい日はころころころがって
座敷まで出ることができるようになり
ある日わたしが訪ねた折などは
目の当るところでお母さんに
髪を洗ってもらっていた
どんな小さなことでもいい
″なにかじぶんにでも
できることはないか″ と
一億の人がみなそう考え
十億の人がみなそう思い
世のため人のため奉仕をしたら
地球はもっともっと美しくなるだろう
片隅に光る清家直子さんよ
真民先生は、四十代の頃に経典を読み続けたあまり、
目を患い、失明するのではないかとまで思われたことがあったので、点字にも深いご理解があったようです。
今の時代になると、音声認識も進んでいますが、目の見えない人にとっては、点字は大切なものです。
しかしながら、一冊の本を点訳するのは、骨の折れる作業です。
といいますのも、私も学生時代に、真民先生から『詩国』を送っていたいだいていたご縁もあって、
点字に興味をもって、点訳ボランティアを行っていました。
学生の頃から既に寺で参禅する暮らしをしていましたので、
特別の部活動は困難だったこともあり、自室でもできる点訳ボランティアをやっていました。
学生の頃に、筑波で科学万博がございましたので、ボランティアでパンフレットを点訳したことも覚えています。
点筆で、一点一点ずつ、六点点字を打って本を点訳するのです。
点字のタイプも使っていました。
そんな経験があるので、今でも多少は点字を覚えています。
なにかわたしにでもできることはないか、
そう考えてみることは、自分も他人も幸せにすることのできる秘訣でありましょう。
横田南嶺