二種の苦労人
先日は、僧堂の雲水たちと『修身教授録』にある「二種の苦労人」について、学びました。
二種の苦労人とは、どんなものかというと、森先生のお言葉によれば、
「苦労したために、表面的なおめでたさや甘さがなくなると共に、そこに、何とも言えない柔らかな思いやりのある人柄になる人と、
反対に苦労したことによって人間がえぐくなって、他人に対する思いやりが、さっぱりなくなる人とがあるようです」
という二種類なのです。
たとえとして、森先生は、その当時大阪天王寺師範という今の大阪教育大学で教鞭をとっておられ、
その生徒さんたちに語られたのですが、
自分たちが、一、二年生のころに、三、四年生の人から、小言を言われたり、辛く悲しい思いをさせられて、
自分が三、四年生になったら、新しい一、二年生に対して、自分たちがされたようなことはしない、
つらい思いをさせたくない、それが学校の伝統的な弊風であるなら、悪伝統の鎖を断ち切ってやろうと思う場合もあり、
逆に自分がやられたことを、今の一、二年生に同じ思いをさせるのは当然だと思う場合もあるというのです。
これを、森先生は、同じ体験をしたとしても、それによって得るところは天地の差を生じるのだと言われています。
これは、私たちの僧堂の修行にも実にそのままあてはまることなのです。
同じ辛い修行に耐えたとしても、それによって柔和な思いやるのある人格になる場合と、
逆に意地悪になったり、冷たくなってしまう場合もあるのです。
そこで、そのような悪弊に陥らないようにするためには、道を学び教えを学ぶことが大切だというのであります。
僧堂のようなところには、良い伝統もたくさんあるのは当然ですが、悪しき弊風と言われるものもありました。
私などは、自分がされて嫌だったと思うことは、極力次の世代の人たちにはさせまいと、特に師家になってから努力してきました。
自分が若くして師家に選ばれたのは、この弊風を断ち切るためだと自ら言い聞かせてきました。
伝統を重んじる世界ですから、たくさんの抵抗がありました。
しかし、それでも二十年努力してきたおかげか、先日も僧堂の雲水たちに、今現実に僧堂の暮らしで、弊風と思われることがないか話し合いましたが、
私などの頃には、そんなことは山のようにあったのですが、考えないと思いつかない様子なのでした。
多少は苦労してやってきたかいがあったかと思いました。
それでも、まだ弊風として残っているのは、ご飯を早く食べることだと話し合いました。
早く食べることは、体によくありません。よく噛んで食べる方がいいのは当然です。
私もこれはよくないと思いながらも、長年染みつかされた習慣でしたので、未だに断ち切ることはできませんでした。
これからは、この弊風を断ち切ろうと皆で話し合ったのでした。
せっかくの修行を、よい人格を育てる方向へと導きたいものであります。
横田南嶺