共感の大切さ
新聞の投書で、高校生の方が、学校の講演会で、共感することの大切さを学んだと書かれていました。
誰かが、何かの被害にあって大変な状況にあるときには、「~したらいいと思う」というアドバイスの前に
「大変だったね」と共感することが大切だということです。
それだけで、相手の気持ちは大きく変わるものだと書かれていました。
なるほどその通りだなと思って読んでいました。
折から、塩沼亮潤大阿闍梨との対談本の校正作業をしていて、大阿闍梨が厳しく過酷な大峰山の千日回峰行をなさっていた時の話を思い起こしました。
山の小屋におじさんがいて、毎日48キロの山道を歩き、1719メートルの山へ行って帰ってくる阿闍梨さんは、ほとんど誰もいないのですが、いつもその山の小屋のおじさんには会うのだそうです。
山は、良い天気ばかりではありません。台風の時も、暴風雨の時にも行を休むわけにはゆきません。
崖崩れや鉄砲水もある中を、命がけで山を登るのだそうです。
その恐ろしさ、大変さ、過酷さを山の小屋のおじさんは知っていてくれるのです。
阿闍梨さんに「この怖さは、麓の者には千遍言っても万遍言ってもわからないだろう」と言われたそうです。
阿闍梨さんは対談の中で、自分のこの苦労を知っていてくれる人がいるということが、一番の心の支えになったと話してくださっていました。
別段、小屋のおじさんは、阿闍梨さんの行を助けてくれるわけでも、代わってくれるわけでもありません。
ただ、その苦しみを知っていてくれるのです。
その知っていてくれる人がいるというのが大きな力になるのです。
慈悲とはこういうものだと思います。知ってくれる、共感してくれるということです。
人が生きる苦しみというのは、誰かに手助けしてもらえるようなものは、まだたいしたことではありません。
本当の苦労は、誰にも代わってもらえないものです。
しかし、その苦労を知っていてくれる人がいるというのは有り難いことであり、力になるのです。
小欄でも、私自身が、いかにも厳しい老師のもとで苦労してきたかのように書いてきましたが、ふと気がついてみれば、そんな苦労を知っていてくれる人がいたからこそ、乗り越えられたのであります。
師のもとでの苦労を、最もよく知っていてくれていたのは、ほかならぬその師そのものであります。
思えば、我が師なども、その先代の朝比奈宗源老師について、私など以上のご苦労に耐えてこられたのでしょう。
私如きの苦労など、それに比べればたいしたことはないでしょう。
自分の通ってきた道だから、よく理解し、共感してくれていたのは、我が師であったのです。
そんな師の慈悲のもとで、三十年来お仕えさせていただいたのだと、師の棺を蓋ってようやく気がついたのでした。
もっとも、「大変だったね」などという一言はありませんでしたが、
その遺影を拝見していると、「ワシも苦労したが、おまさんもなあ……」という声が聞こえてくるような気がしています。
横田南嶺