生か死か
『碧巌録(へきがんろく)』というのは、中国宋代の禅僧 圜悟克厳(えんごこくごん)(一〇六三~一一三五)が、百の禅問答を編纂した書物です。
岩波文庫でも手に取ることができます。
その百則の禅問答に中に、不思議な問答があります。
道吾円智(どうごえんち)禅師が、漸源(ぜんげん)という侍者をつれて、とある家に弔慰に出向かれました。
そこで漸源は、奇妙なことに棺桶を打って、「生か死か」と道吾禅師に問いました。
棺桶に入っているのですから、その中に入っているのは死人であることは当然です。
しかし、それに対して道吾禅師は、「生ともいわず、死ともいわず」と答えられました。
生きているとも言えない、死んでいるとも言えないというのです。
どうして、言えないのですかと詰め寄る漸源に道吾禅師は、
ただ「いわじ、いわじ」とのみ答えたのでした。
どこまでも、言わないというのです。
生と死の境は、どこにあるのでしょうか。
今日一般には、呼吸停止、心拍停止、瞳孔拡大の三つをもって死と判定するのでしょう。
しかし厳密に考えてゆくと、何が生なのか、何をもって死とするのか、考えれば考えるほど難しくなってきます。
生がずっと続いて、その果てに死が訪れるように思われますが、
実は一枚の紙の表と裏のように、生の裏には常に死があるように思います。
生と死とは、常に表裏一体であって、何かの折に死が表になるだけのように思います。
「生をあきらめ、死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり」
とは、道元禅師のお言葉ですが、
生とは何か、死とは何かを究めてゆくことこそ、生きる上においてはもっとも大切な課題でありましょう。
果たして、今私は生きていると言えるでしょうか。
「いわじ、いわじ」
横田南嶺