真の目標
このところ、森信三先生の『修身教授録』の勉強会を、毎晩行っています。
先日は、「学問・修養の目標」について学びました。
森先生は、
「われわれの生活において、物事の持続が困難だというのは、結局は真の目標をはっきりとつかんでいないからであります。
つまり最後の目標さえ真にはっきりつかんでいたならば、途中でやめようにもやめられぬはずであります。」
と仰せになっています。
では、今私たちが、こうして学び、道を修める目標はいったい何なのかと、雲水たちに質問してみました。
それぞれ、
「いいお坊さんになるためです」
「尊敬される僧侶になるためです」
「頼りとされるお坊さんになるためです」
などの答えが返ってきました。
悪いことではありません。
なんとか手の届きそうなところに目標を定めて精進するのは良いことです。
しかしながら、ここではあえて「真の目標」と言っているのですから、
そんな手の届きそうな所の話ではなくて、究極のところ目指すのはなんであるかを問うているのだと思います。
そこで、私は、
「我々がこうして修行するのは、みな仏になる為である」
と申し上げました。
仏になる、ブッダになるために修行するのです。
仏道を歩むということは、成仏の道を歩むのです。
仏になるために、歩むのです。
それは、一年二年の話ではなく、二十年三十年という話でもなく、一代でなしえる話でもありません。
幾たび生まれかわろうとも、必ずや仏になる、ブッダになるために歩むのだという決意がなければならないと話をしました。
そう思えば、たかだか数年の僧堂の修行で、辛いだの大変だの、早く帰ろうなどいう思いが起きるはずはないのです。
遠き目標を定めることは大事です。
たとえて言えば、北極星を目指して歩めば必ず北の方角に進むことができます。
北極星にたどりつくことは不可能にしても、方向を間違うことはないのです。
その辺にある、柱や曲がり角を目安にしていては、道を間違いかねません。
遠くにある北極星を目指してさえいれば、必ず北の方に進めるのです。
それと同じように、仏になるのだ、ブッダになるのだという目標を定めて努力していれば、私たちは道を間違うことはないのです。
その辺のいい和尚になればよい位の目標では、道を間違うことがあり得なくもないのです。
遠大の志を持つことが大事なのです。
仏になる、ブッダになるために、今修行しているという自覚を持って欲しいと話をしました。
横田南嶺