「禅」を聞いた
禅の話を聞くことは、多いのですが、
「禅」を聞いた、いや「禅」に触れた、
「禅」を目の当たり見ることができたという感動を覚えた講演でした。
二月十五日、午前中仏殿で涅槃会の法要を勤めて、その後すぐに上京し、
大手町の花園大学サテライト講座で、円福寺僧堂師家の政道徳門老師のご講演を聴いてそんな感動に包まれました。
政道老師は、私よりもお若い老師ですが、私も及ばないすばらしいものを持っている老師です。
その生き生きとしたお姿と、深い肚の底から湧き出るお声と、
温和でいかにも楽しそうなご表情とで説かれるお話は、
その内容もすばらしく、まさしく「禅」を聞いた思いに浸ったのでした。
老師は、慈雲尊者の「薬」と書かれた墨蹟をわざわざお持ちくださり、私たちに見せてくださいました。
すばらしい書でした。
薬とは、病を治すものであり、我々でいえば悩みや苦しみを無くする仏法のことを表します。
普通仏教とは、薬を服することによって、即ち仏法を学ぶことによって、迷い苦しみの世界から、迷い苦しみの無い世界へと導かれると考えます。
しかし、禅では、薬を服することによって、即ち仏法を学ぶことによって、迷い苦しみがなくなるのではなく、混じりけなく迷い苦しみとみることだとお話しくださいました。
迷いを混じりけなく迷いとみるのだというのです。
即ち苦しみを否定しない、苦しみを忌み嫌うことをしない事だと説かれました。
苦しみを否定するのは、苦しみに蓋をするだけになってしまい、
かえって苦しみから逃れられなくなり、迷いを否定するとかえって迷いから逃れられなくなると。
苦しみをまじりけなく苦しみとみる、すると苦しみと自分が一つになる、
苦しみが分別できなくなる、分別できなければ苦しみは存在しないと説かれていました。
苦しみは、比較することから生じるのです。
他人と自分、過去の自分と今の自分、将来の自分と今の自分を比べるから苦しみが起きます。
比べず、分別せずに一つになればいいのだと説いて下さいました。
譬え話で、政道老師は、坐禅をして膝が痛いという雲水には、その痛みをそのまま見つめなさいと教えられるそうです
じんじんしているのか、暖かいのか、熱を持っているのか、爆発しそうなのか、よくみていると、痛みと一つになるのだと説かれました。
そうなのです、苦しみが無くなるというよりも、苦しみで無くなるのでしょう。
そんな話を分かりやすく具体的に説いてくださいました。
素晴らしい政道老師のお話を聞いていると、
わたしももう一度雲水になって、老師のもとで修行したいという思いになったのでした。
横田南嶺