三界無安、猶如火宅
ある時、臨済禅師が修行僧たちに呼びかけられました、
「大徳よ、この迷いの世界である三界は、安らかなことなどない、それはあたかも火に燃える家のようなののだ」と。
『法華経』にある譬喩を用いて説法を始められたのです。
長者の家が火事になりました。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得しても外に出ようとしません。
そもそも火事とはどのようなことすらも分からなかったのです。
そこで長者は、子供たちが欲しがっていた「羊の車と鹿の車と牛の車の三つの車が門の外にあるぞ」といって、
子供たちを外へと導き出しました。
その後にさらに立派な大きな白い牛に引かせた車を与えたのでした。
長者は仏であり、火に燃えた家とは苦しみの多いこの世界、子供たちは私たち一切の衆生を表します。
羊車・鹿車・牛車の三車とは声聞・縁覚・菩薩という三乗とも呼ばれる方便の教えです。
人々の素養や能力に応じて、三乗の方便を示しておいて、その後に究極の教えを示したことを表しています。
そこで
「如来は已に 三界の火宅を離れて寂然として閑居し 林野に安処せり」
とあって、仏さまとは、この燃えさかる家を離れて、静かな林に安らかに住んでいる人なのです。そしてその仏さまの目からご覧になれば、
「今此の三界は、皆是れ我が有なり」
であって、この迷える世界は私の家のようなものなのです。更に
「其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」
この世界で苦しんでいる人はみな仏さまの子なのです。
「而も今此の処は、諸の患難多し。唯我一人のみ、能く救護を為す」
といって、この世界は災いが多いので、私一人がそこから救ってあげることができると説かれています。
その仏さまとは、いったいどのような方でしょうか、どこにいらっしゃるのであろうかというと、臨済禅師は
仏さまがどこかにいらっしゃるかなどと、外に求めてはならない と仰せになりました。
あなたの心に具わっている清らかな智慧、無分別の智慧、無差別の智慧こそが仏にほかならないと示されたのです。
そして言われたのが、
仏とは、今わたしの目前で説法を聴いているお前達そのものだ と。
燃えさかる家で苦しんでいて、そこから救ってもらうのが私たちだと思ってしまいがちですが、救う側の仏が私なのであります。
横田南嶺