無常
『臨済録』に
「大徳、三界は安きこと無し、猶お火宅の如し。此は是れ汝が久しく滞住する処にあらず。無常の殺鬼(せっき)一刹那(せつな)の間に貴賎老少を揀(えら)ばず。」
とあります。
「諸君、凡夫の迷いの世界は安きことなく、火事になった家のようなところだ。ここは君たちが久しく留まるところではない。死という殺人鬼は、一刻の絶え間もなく貴賤老少を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ」
という意味です。
この句を見ると、宮城県気仙沼の地福寺の和尚さんを思い出します。
僧堂で修行していた頃に、『臨済録』を学んで、この言葉も知っていたのですが、あの東日本大震災でこのことを実感させられたと仰せになっていました。
言葉として、「無常の殺鬼、一刹那の間に貴賎老少を揀ばず」と知っているのと、実地で体験することとは別なのです。
長年かけて本堂や庫裏など再建し終わって、まだ幾ばくも経たないうちに、津波ですべてを流されてしまいました。
建物を流されたということも大きな悲しみですが、それ以上に本堂再建に向けて共に努力してきた総代さんたちも亡くしたことが悲しかったと仰っていました。
一瞬にうちに、景色が全く変わってしまうのですから、「無常」であることを実感せざるを得ないでしょう。
お釈迦さまの言葉にも
「わき目をふらず 華をつみ集むる
かかる人をば 死はともない去る
まこと 睡りにおちたる
村をおしながす おおみずのごとく(法句經四七)」
「そらにあるも 海にあるも
はた やまはざのあなに入るも
およそ この世に 死の力の
およびえぬところはあらず (法句經一二八)」
とある通りなのです。
無常というと、このような大きな変化だけをいうのではありません。
「一刹那の間に」と臨済禅師も仰せになっているように、一刹那に変わっているのです。
「刹那」は時間を表す最小の単位で、指を一回弾くあいだに六十五刹那あるという説や、七十五分の一秒に相当するとする説など多くの異説があります。
この世の存在物は、実体を伴ってあるようにみえますが、実際には、一刹那ごとに生滅を繰り返していて実体がないと仏教では説きます。
これを「刹那生滅」あるいは「刹那無常」といっています。
目の前にある柱も敷居も、変わりなく存在しているように見えますが、何百年も経てば朽ちてしまいます。
それはある朝突然朽ちるのではなくて、一年一年朽ちつつあり、一日一日朽ちつつあり、もっと厳密にいえば一刹那ごとに朽ちつつあるのです。
お互いの体にしても、一日一日変化しつつあります。
いや一刹那ごとに変化しているのです。
私たち凡夫の目には、そのようなかすかな変化が見えませんので、昨日と同じように見えているだけなのです。
すべては一刹那ごとに生滅を繰り返しているというのが「無常」なのです。
「無常」であれば、これが自分のものだ、これが自分だと執着するものなど無いと説くのが「無我」であります。
「無常」であることを見るのは、仏教の基本であり、究極でもあります。
(雪安居制末大摂心提唱より)
横田南嶺