怨親平等(おんしんびょうどう)
十八日の花園大学サテライト講座では「怨親平等」の思想について講義をしました。
元寇の終わったあと円覚寺が開創された折に、「怨親平等」の心で、敵も味方も平等に供養したのです。
中村元先生が、「靖国問題と宗教」という文章の中で、
「生きて、敵味方に分れて戦っているときには対立があるが、死んでしまえば対立を超えるのである。
元寇のあとの法要では、わが軍の将士の霊を弔うのみならず、元軍の将士の霊の冥福を祈っている。
島原の乱のあとでは、殺された切支丹側の人々の冥福をさえも念じて、怨親平等の法要が行われている。」
と説かれています。
「われわれの祖先は、国と国との対立を超え、異なった宗教の間の相克を超えて、敵味方の冥福を祈ったのである。」と仰せになっています。
しかしながら、中村先生はその後に、
「この崇高な、和(やわらぎ)をいとしむ日本の伝統的精神が明治維新のころから失われたのではないかと思う。
明治の政府が靖国神社を設立したときには、官軍の兵士の冥福のみを祈り、幕府側の戦役者を除外している。」
と指摘されています。
いつの間にか、敵と味方という対立をそのままにしてしまうようになってしまいました。
仏教では、元来対立はないのだと説きます。
本来一如であったことに目覚めるのが、仏教でいう智慧であります。
でありますからこそ、『法句経』に
まこと 怨みごころは
いかなるすべをもつとも
怨みを懐くその日まで
ひとの世にはやみがたし
うらみなさによりてのみ
うらみはついに消ゆるべし
こは易(かわ)らざる真諦(まこと)なり
(友松円諦 訳)
と説かれているのです。
うらみなき世界を説くのです。
私の次には、佐々木閑先生のご講義。「人は自我を捨てられるのか」と題してご講演くださいました。
仏教以外の宗教では、欲求や願望が満たされることを幸せと説いているが、
仏教では、欲求や願望を捨て去ることを説いていると解説されていました。
諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静という四法印を、分かりやすく
生きる事は苦しみである。
苦しみの原因は生きていることにある。
願望を放棄し、過大な自我を削り落としたところに真の安楽があると
説明してくれていました。
私の講義も佐々木先生のご講義も、つまることろ、自我によって
差別してしまうことに苦しみの原因があるという共通の考えになっていました。
雪のまじる冷たい雨の中を、定員一杯の聴衆が熱心に聴講してくださり、今年のサテライト講座も無事開演することができました。
次回は、二月十五日、花園大学の志水一行先生と、八幡の円福寺の政道徳門老師のご講義であります。私も楽しみに拝聴に参る予定です。
横田南嶺