仏さまにも出来がたいこと
長谷川櫂先生が岩波書店の『図書』に書かれた文章のなかに、長谷川先生の曾祖母にあたる方が円覚寺の釈宗演老師とご縁があり、宗演老師に与えられた書が残っていると書かれています。
宗演老師があたえた書というのが
佛能空一切相 成万法智 而不能即滅定業
「仏は能く一切の相を空じて万法の智を成ず。しかれども即ち定業を滅すること能わず」と読みます。
長谷川先生は「万能の仏といえども人間の背負う業だけは消し去ることはできないという意味らしい」と解説されています。
『景徳傳燈録』の巻四にあり、五祖弘忍禅師のお弟子の神秀禅師のお弟子にあたる元珪禅師という方の言葉にでています。
仏さまにも三つの不可能なことがあるという一節です。
第一には、仏は一切の相対差別の相を空じて、万法を明らかにする智慧を成し遂げているが、人間に定められた業を消し去ることはできない。
定業(じょうごう)は、岩波の仏教辞典によれば、「報いを受ける時期が定まっている業」、また中村元先生の仏教語大辞典によれば、「前世から定まっている業報のこと」を言います。
第二には、「仏は能く群有の性を知って億劫の事を窮むれども、無縁を化導すること能わず」で、仏は、あらゆる命あるものの本質をしって、無限に長い時のことを窮めていても、縁のない者を導いてゆくことはできないというのです。
第三には、「仏能く無量の有情を度せども、衆生界を尽くすこと能わず」といって、仏は数限りない命あるものを救っても、この衆生の世界すべてを救うことはできないというのです。
要するに、仏さまといえども、業の報いを受けること無くすことはできない、
縁のないものを救うことはできない、すべての人や生き物を救うことはできないという三つの出来がたいことがあるというのです。
その第一にあたる言葉を宗演老師がお書きになって、長谷川先生の曾祖母に与えられたというのです。
あまり書かれる言葉ではありません。
「業」というと悪いもののように思われるかもしれませんが、人間の行いは良いものも悪いものもすべて業です。あらゆる行為を業と言います。
何か行いをなせば、必ずその結果が報いとして現れます。
それが今生のうちに現れるか、次の生で現れるか、またその次の生で現れるか定まっているのが、定業です。
いつ現れるか分からないのが不定業と申します。
いずれにせよ、ここで宗演老師が言わんとしていることは、人間が行いをすれば必ずいつかその報いを受けるのであり、その報いを受けることは、仏さまといえどもどうすることはできないというのであります。
『法句経』の百六十五番に
「 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、
みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、
各自のことがらである。
人は他人を浄めることができない。」という語があります。
これがブッダの教えの基本です。
自ら作した業の報いは自ら受けるのです。
それが善業であれば、善い報いを受けます。
悪業であったならば、悪業の報いを受けるのです。
これは決して悪業の報いを受けるぞといってあたかも人を脅すかのような意味ではなく、
自らが自らの行いを正して生きるのがブッダの教えであることを示しています。
お釈迦さまといえども、ご自身のお身内であったシャカ族の滅亡を防ぐことはできませんでした。
それが、シャカ族の作した業の結果だったからです。
自らが自らの行いを正してゆく、これがブッダの教えの原点なのです。
しかしながら、中村先生の辞典の解説にもありますように、
前世から定まっているものがあるとしたら、それはその人にとってはどうしようもないということになります。
ただ黙って自ら受けるしかないのです。
宗演老師は、そんな思いを込めてお書きになったのかもしれません。
そこには、坂村真民先生の次の詩の心に通じるものがあると思います。
ねがい
どうにもならない
血をもって生まれ
どうにもならない
運命を背負い
みんな悲しいんだ
みんな苦しいんだ
だからお互い
もっといたわりあい
なぐさめあって
暮らしてゆこう
小さい蟻たちさえ
あんなに力を合わせて
生きているんだ
横田南嶺