板橋興宗禅師の近況
教師をなさっている知人から、お手紙を頂戴しました。
毎年、年末か正月に、板橋興宗禅師を訪ねて、その近況を知らせてくれます。
板橋禅師は、渡辺玄宗禅師のお弟子で、金澤の大乗寺から総持寺の貫首になられた方です。
貫首をおやめになってからは、福井県に瑩山禅師の御誕生寺を建立されて、専門僧堂になされています。
御年九十四歳になられます。
お師匠さんの渡辺禅師というお方は、円覚寺の宮路宗海老師のお弟子にあたるものですから、臨済宗にも深い関心をお持ちで、私も四年ほど前にお目にかかってご挨拶をさせていただきました。
私にお手紙をくださる先生は、毎年板橋禅師にインタビューをして、その記事を送ってくださいます。
今回の記事のなかに、禅師の言葉として
朝の坐禅、夜の坐禅を私は欠かしたことがない。……最近は、朝はさほどではないが、特に夜の坐禅は一時間こうやって坐っていると、体がとてもつらくなった。何か動いてね、足が痛く、体がしんどい。労働も何もしていないのだけれど、夜の坐禅は肉体的につらくなったね。
でも、一度も欠かしません。病気ですらも休んだことはない。やらないと気が済まない。
当然な理由があって、よそに行って坐る時間がなかったのなら何とも思わないけれど、自分で寝ころんでおって坐らないということはないね。ひとりで坐禅に行く。それが今の私の人生です。
と語っておられます。ご病気を療養なされながらも、今も坐禅を貫かれるお姿には頭が下がるばかりです。
更に、
私にとっては仏法もテッポウもない。ただ息をしているでしょう、生きている。疑問というものが一つもない。悩みというのかな、悩みがないんだなあ。ただ、本当にごくあたりまえというのですかね。「もう死が近づいた」と言われたら、「ああそうですか」。それでも、「明日死んでもいいのか」と聞かれたら、できるだけ長生きしたいなあと思っています。
自分から進んで死にたいとは思わない。
今はただこうしていること……少なくとも仏法というのは忘れました。「忘れた」とは、私には「仏法」という特別のものはないという意味です。……ごくあたりまえの人になっている。
と述べられています。
こういう心境こそを、「身心脱落」というのでしょう。
知識や見解でとらえた「仏法」などは、皆抜け落ちてしまって、「ごくあたりまえ」になっているのです。
日々の行持をおろそかにせずに、勤め励んでこその、「ごくあたりまえ」なのであります。
容易にまねのできることではありません。
横田南嶺