講演始め
九日には、大手町の新丸ビル内で、講演。今年の最初の講演でありました。
これが、なかなか大変な会で、なかにはとある国の元駐日大使の方もいて、各国の錚々たる方々が集まって話し合う勉強会なのでした。
講演と質疑応答とで二時間。
通訳が入るというので、講演についてはあらかじめ完全原稿を作成して、通訳の方にお渡ししておきましたので、準備さえしていれば、難なく終えることができるものです。
これも場数を踏んできたおかげか、だいたいどれだけの原稿をしたくすれば、どれくらいの時間になるか、かなり正確に分かっていますので、通訳をいれても、講演が終わると一時間ちょうど、一分のくるいもありませんでした。
難しいのが、質疑応答です。
特に他国の方ですと、相手が僧侶であるからとか、円覚寺の管長だからといって、遠慮するとか、配慮するようなことはありません。
厳しい質問をいただきました。
私は、華厳の思想と怨親平等という円覚寺の開創の精神について話をしました。
仏教でとく、「和」ということは、統一することではなく、多様性を認めることだとお話しました。
しかし、他国の方からは、「和」すなわちハーモニーということは、ある程度の統一が必要だと指摘されました。
統一しようとすると、どうしても排除するものが生まれてきます。
華厳の思想では、排除をしないので、それぞれの存在を認めること、様々な花が咲くことだと話をしました。
その華厳思想から、怨親平等についても話を広げました。敵も味方も平等に供養するという考えです。
すると、それは「ゆるし」ということかと、質問されました。
「ゆるす」といってもいいでしょうと答えました。
更に「ゆるせない場合もありますが、どうしたらいいのか」と聞かれました。
このあたりは鋭いところです。
私は即座に、「それは、それでいいのです」と答えました。
「ゆるせない」ことを「ゆるせない」と言い出すと、これもまた苦しみの連鎖を起こします。
「ゆるす」ということは、「ゆるせないという自分」をも「ゆるす」ことなのです。
丁々発止の質疑応答でした。
二日間にわたる勉強会らしく、その中の一講座を務めたのでした。
華厳の思想は、ダイバーシティという概念にも通じるところがあるようで、共感をいただくことができました。
講演のはじめに、私の暮らしている修行道場では、今もかまどで火をおこしてご飯を炊いていることを申し上げました。
火をおこすには、薪を積めすぎてはいけないのであって、木と木の間、隙間から火がおこるのだと話をしました。
それと同じように、お互いの頭脳もあまり知識を詰めすぎると、かえって良い知恵がわかないので、私の担当する時間は隙間の時間だと思って、ゆったりとおくつろぎくださいと申し上げて、和気藹々のうちに始めました。
最後にも、私のおよそ役に立たない話をお聞き下さり恐縮です、この後は役に立つ話を学んでくださいと言って、笑いのうちに終えました。
これもまた場数のおかげか、質疑応答も一時間かっきりで終えることが出来ました。
しかしながら、合計二時間は、冷や汗のかき通しで、たいへんな講演始めでありました。
横田南嶺