鏡開き
僧堂のお正月は六日まで。
七日の朝から、平常の修行に戻ります。
そこで六日には、松飾りを外し、夕方に鏡餅を下げて、鏡開きを行います。
その時に、いつの頃からの習慣なのか、くじ引きで景品をいただきます。
私が修行していた頃は、一等賞と二等賞が、老師の書を頂くことができました。
私の代になってからは、一等賞と二等賞だけでは、書をもらえずに僧堂を終える人も多いので、
皆さん全員に書いてあげるようにしています。
色紙や短冊などの、禅語や論語の言葉などを、それぞれ書いて差し上げています。
はずれの無いくじ引きなのです。
しかし、どんな言葉が当たるのかは、楽しみになっているのかと思います。
今年は、特別に一等賞に達磨の画を画いてあげました。
あとは、色紙や短冊です。
この色紙は、
若し人、静坐一須臾せば、
劫沙の七宝塔を造るに勝れり。
宝塔は畢竟化して塵と為るも
一念の静心は正覚を成ず。
と読みます。
もしも、ほんのわずかの時間でも静に坐るのならば、
それは、数え切れないほどたくさんの宝塔を造るよりも勝れている。
なぜなら、宝塔はどんな立派であろうとも、結局は朽ちてしまって塵になるが、
一念の静かな心は、正しい悟りを成就することができるからだという意味です。
こちらの色紙は、
形直ければ影端(ただ)し
形がまっすぐであれば、その影もまっすぐだというのがもとの意味で、
姿勢をまっすぐに正せば、心もまっすぐになるという意味にも用いられます。
あるいは、上に立つ者が、我が身を正してゆけば、そこにいる人たちも自然と正されてくるという意味にもとることができます。
僧堂に長くいると、どうしても、新しい者の為すことが気になって、
口うるさくなってしまいがちなのですが、
言葉でガミガミ言うよりも、まずは我が身を正してゆくことが大切なのです。
これだけは、長らく僧堂のお世話になっていてしみじみ思うことです。
ガミガミ言い出すと、自分の修行がおろそかになっている証拠なのです。
こちらの色紙は、
憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘る。
学問に発憤しては、食事も忘れ、道を楽しんでは心配事も忘れるという意味です。
孔子の人となりを表した論語の一節であります。
修行も同じことで、仕方なしにやっているようでは、何もなりません。
よしやるぞと発憤して、それこそ寝食を忘れるくらいでないと、なかなかものにはなりません。
何の道でも同じことでしょう。
道を楽しむということは、大切なことだと思っています。
辛いことにただ辛抱するだけでは、これまた身につかないものです。
坐ることや、学ぶことが楽しくなってくると、しめたものです。
どうしたら、その楽しさに気づいてもらえるだろうかと、いつも苦心しています。
禅語でも、せめて正月にもらった言葉くらいは、覚えてもらいたいと願って書いています。
それから、最近の願うことは、この書がやがてオークションに出されることの無いようにと……
横田南嶺