閑不徹(かんぷてつ)
禅語に「閑不徹」というのがあります。
文字だけみますと、閑けさが徹していない、完全に静かになっていないような趣を感じるかもしれません。
禅語としての意味はというと、
『禅学大辞典』には、「徹底したしずけさのこと」と解説されていて、
入矢義高先生監修の『禅語辞典』には「どこまでものんびりしている」と説明されています。
「不徹」が徹底していないという意味ではなく、「~不已」(~やまず)、「~不盡」(~つきない)を表し、
現代語にすれば、「~てやまない」「~極まりない」という意味として解釈しています。
無学祖元禅師の語録『仏光録』のなかに、「歓喜不徹」という言葉がでてきます。
今北洪川老師は、「不徹」は「つよくいうなり」と註釈し、「歓喜不徹」を「うれしくてたまらぬ」と解釈されています。
「閑不徹」とは、「閑けさ」を強調している表現です。
杜甫の『江畔獨歩尋花七絶句・其の一』に「江上被花惱不徹」という一句があります。
「江上、花の被(ため)に悩まされて徹(た)えず」と吉川幸次郎先生は、訓読されています。
吉川先生の注釈によれば、「「悩」はなやますだが、それに「不徹」をそえたいい方は、他の用例を知らぬ」とあり、
更に「「不徹」は何にしても俗語である」としながら、
「不徹」を「たえず」と訓読し「たまらなく悩まされる」と解釈されているのです。
吉川先生が俗語であると言われているように、
禅語には俗語を用いた表現が多いのです。
それは、禅がその土地に根ざして、その時代の言葉で語られたことを表しています。
それは素晴らしいことだと思いますが、後の世になって解釈するのは、難しいのであります。
いろいろと調べて意味を考えないといけません。学問を怠ってはならないと痛感させられます。
横田南嶺