長年の習慣
臘八の大摂心は、ふだんの大摂心とは異なることが多くあります。
まず、朝、普段は午前三時の勤行からなのが、午前二時の坐禅から始まります。
独参は、雪安居では一日四回行われるのが、臘八中は一日に五回あります。
僧堂の雲水は、堂内ではふとんを敷けずに、夜は坐睡のみとなります。
私だけの特別の行として、朝冷水を浴びることを行っています。
私などは、気がついてみると、数えればこの臘八を修行僧として十二回、僧堂の師家としても二十一回も行ってきました。
師家になった頃は、まだ三十代でしたので、なるだけ雲水とおなじようにと思って、朝も午前二時の坐禅から堂内で坐るようにしてきました。
元来師家は、朝の勤行から出ればいいのですが、そのようにして今も行っています。
かつては、臘八に向けて体調を調え、体重が増えてしまうと長時間の坐禅ではてきめんに足がいたくなりますから体重を制限し、いろいろと気をつかってきました。
ところが、この頃はもう長年の習慣になってしまって、十二月になると自然と臘八の修行に入れます。
何の準備もしなくとも、一日の朝から午前一時頃に目が覚めます。
自然に午前二時には禅堂に入って、皆と共に坐禅しています。
もう、臘八だとか、雲水のように自分も勤めるのだとかいう気負いも無く、そんな意識をすることもなく、自然なのです。
あたかも季節がかわって衣替えでもするかのような感じです。
朝冷水を浴びるのも、初めの頃は気合いを入れて行っていましたが、もうこれも自然です。
初日の一杯目だけは、冷たいと感じますが、それ以降は庭に水をまくように自然に行っています。
一日に五回の独参を受けるのはたいへんなことで、初めの頃はがんばろうという意識がありましたが、これもこの頃は三度の食事におやつが少し増えたくらいの感じで自然に行っています。
これは、やはり長年の習慣によるものだろうと思います。
外の人からみれば、午前一時に起きて坐禅して、朝冷水を浴びるなどいうのは、愚かのように見えるかもしれません。
中には大変な修行だと思ってくださる方のいらっしゃるかもしれません。
本人にしてもみれば、何でもなくただ自然なのです。
それでいて、朝の午前二時の坐禅は気持ちいいし、星空がきれいだし、水を浴びたあとは、体がさっぱりして、かえってぬくぬくしてきますし、快適なのです。
ただ楽しんでいるのです。
修行して何かが得られるのではないかと思い、時には何か得られたような気になったころもありましたが、やはり修行していること自体が喜びであり、楽しみであるのです。
今年初めて臘八に臨んだ新到さんたちにとっては、ひょっとしたら人生最大の苦難だったのかもしれませんが、こちらは長年の習慣で、いつもの如くに楽しんで、喜びのうちに終えることができます。
それに、なんといっても、坐禅について普段から野口体操、ヨガ、気功など様々なことを学んで研鑽を重ねていますし、とくに最近は佐々木奘堂さんに教わったことも大きな影響がありまして、坐禅だけは毎年新たな発見があり、毎回新たに深まってゆくのです。
今年も大きな発見があり、喜びがありました。
これが一番の楽しみなのであります。
禅は頓悟ということを強調していますが、愚鈍な身にとっては、長年の習慣から得られるものもあります。
横田南嶺