担閣了(たんかくりょう
『仏光録』の中で、仏光国師が、ご自身の修行時代を振り返って、
「我、狗子無仏性の話に我が五六年の工夫を担閣了せらる」と表現されています。
「担閣」は、「遅れる、暇取る、滞る 遅らす、暇取らせる、滞らせる」などの意味があります。
そこで、この文章を訳すると、
「私は狗子無仏性の公案で無駄に五六年間もの暇を取らせてしまった」となりましょう。
たしかに、仏光国師ほど英邁なるお方が、今で言う青春の真っ盛りの十七歳から二十三歳まで五、六年もの間を、たった「無」の一字のために費やしたでのすから、無駄をしたといえばそれまでありましょうが、やはりこの無駄が尊いのであります。
修行とは、結局無駄骨を折ることにほかなりません。
無駄を無駄と知っていて、それでも営々と無駄を貫き通してゆくしかないのです。
『仏光録』の中にも、仏光国師のこの述懐に対して、同友が、決してそうではない、
この公案のために胸中を摩擦したからこそ、素晴らしい体験ができたのだとなだめています。
公案をいただいて、朝から晩まで、晩から朝まで、工夫し続けて、心の中を摩擦することによって、業識が落ちてゆくのであります。
公案とは石けんみたいなものだという誰かの言葉がありますが、たわしのようなものでもあります。
それで、心の中を一生懸命に磨くのであります。
力を入れて「ムー、ムー」と擦り続けるから、段々と執着や妄想が落ちてゆくのです。
臘八でもそうです。
この忙しい年末に禅堂に閉じこもって、朝から晩まで、晩から朝まで坐り続けるなどというのは、無駄と言えば無駄でありましょう。
でも、一生懸命もがき苦しむように、
「無」の一字に取り組んでゆくと、
「無」が分かるとかいうのではなくて、
心の中にため込んでいた余計なものがこそげ落とされてゆくのです。
そうして、さっぱりとした心境になるのです。
本来の自己が輝きを取り戻すのです。
きれいさっぱりした心境になって、十二月八日の成道会に臨みたいものであります。
今年は有り難いことにも、第二日曜日の日曜説教と重なりまして、日曜説教のあと引き続き成道会になります。
大勢の方も参列してくださることでしょう。
(臘八大摂心提唱より)
横田南嶺