この国の風たるや ーその2―
仏光国師が、仏国国師に語った言葉に、
この日本の国で禅を学ぶ人たちは、書物ばかり読んで、上手な文章を作ることに熱心であって、悟りを得る者は少ないとありました。
それは、当時のやむをえない事情があったのだと思われます。
更に、仏光国師は、そのような書物ばかり研究している人たちのほかに、
もう一つ別の人たちがいると述べられています。
それは、「道人」と称して、「閑坐」をしている者だと仰せになっています。
「道人」とは、元来は、道を求める人であって、いい意味なのですが、
後には「道心」などと共に、悪い意味でも使われるようになってゆきました。
仏道を求めているのだといいながらも、自分にはとても難しい学問をすることなど、及ばないとあきらめて、
ただ坐っているだけというのです。
「閑坐」もここでは、無駄に坐っているというような意味合いで用いられています。
確かに、中国からそのまま伝わった禅を学ぶのは、よほどの語学力がないと無理だったでしょう。
禅語を覚えるために、今のような『禅林句集』も無い頃なので、たくさんの語録を読み込まなければなりません。
自分には無理だとあきらめる者がいても不思議ではありません。
一生懸命に、書物の研究をする者たちと、あきらめてただ坐っている者たちと二つに分かれていたのです。
そこで、仏国国師のお弟子の夢窓国師が、
仏国国師に、この二種類の人たちでは、どちらが優れているのでしょうかと尋ねました。
普通考えれば、一生懸命禅を理解しようと努力して研鑽している人がいいと思われるでしょうが、仏国国師は違いました。
ただ黙々と坐っているだけの者の方がいいのだと答えられています。
このあたりが、禅の世界のおもしろいところであります。
博覧強記の人の方が、執着が深いというのです。
鈍根で今生で悟ることはできなくとも、遅々としてでも努力している者は、
きっと次に生まれかわったときに、一度禅の言葉を聞いただけで悟れるだろうと仰せになっています。
奥深い話であります。愚鈍の尊さであります。
しかしながら、そうかといって、それでは、学ぶ事は無駄だと考えて、
ただぼやっと坐って日を過ごしていたら、これもまた仏国国師から厳しい叱責を受けることは間違いありません。
やはり、書物を読んで学問をしてゆくことと、地道に坐禅をしてゆくことと二つが車の両輪のように必要なのです。
そうしてみると、普段朝晩に坐禅しながら、いろいろのことを学んで、
時には一週間坐禅に没頭できるという僧堂の環境は、やはり修行には最適だと言えます。
(臘八大摂心提唱より)
横田南嶺