繰り返しの尊さ
常に新しいことを学んでゆくことも大事ですが、
同じことを繰り返し学び続けることも必要です。
しかし同じことをやっているようでも、受け止め方が違ってくるものです。
近年臘八の大摂心では、初日に『隱山禅師亀鑑』を学び、
次の日から『仏光録巻九 告香普説』を読んでいます。
読む方も毎回新たな気づきがありますし、聞く方もまた新たな思いがするのではないかと思います。
隱山禅師は、越前のお生まれで、幼少にして出家され、十六歳で禅の修行に志し、
十九歳で横浜の永田にある東輝庵の月船禅師に参禅されようとされました。
ところが、月船禅師のところに大勢の修行僧が集まっていて、
これ以上道場に収容できないということで、
まだ二十歳にも満たない隱山禅師は、入門を拒まれ、しばらく学問をするように諭されます。
はるばる山を越え川を渡って行脚してやってきて、
はいそうですかと帰るわけにはゆきません。七日坐り通して頼みます。
涙を流して懇願して、最後には血の涙になったといいます。
そんな真剣な様子を見るに見かねて、ようやく月船禅師に取り次いでくれて入門できたのでした。
月船禅師のもとで修行を重ねて「仏語祖語、通明せざるなし」という自信を得られました。
しばらく美濃のお寺に住まわれていたのですが、
月船禅師がお亡くなりになって、峨山禅師が後を継がれたということを耳にして、
月船禅師の会下でもあった峨山禅師にもう一度参禅しようとされました。
ちょうど峨山禅師が、江戸湯島の麟祥院におられて、そこで参禅されました。
峨山禅師から、「手をなぜ手をいうか」と詰問されて、答えられず、
更に難透の公案に取り組んで、御廟にこもって坐り抜かれました。
ようやく見所を得て、峨山禅師にも認めてもらえました。
古人刻苦光明必ず盛大なりと申しますが、
みなそれぞれご苦労されてこそ、大きな体験を得られています。
われわれも、これから一週間横にならずに坐り抜くのですが、
いつも森信三先生の言葉も紹介しています。
「人間の真価を計る二つのめやす―。
一つは、その人の全知全能が、一瞬に、かつ一点にどれほどまで集中できるかということ。
もう一つは、睡眠を切りちぢめても精神力によって、どこまそれが乗り越えられるかということ」
一週間睡眠を切る詰めるのですが、これを精神力によって乗り越えてゆかねばなりません。
毎年この言葉を紹介しながら、繰り返し繰り返してゆくうちに、
その言葉が骨身にしみるまで修行を続けたいものです。
(臘八大摂心提唱より)
横田南嶺