面前聴法底(めんぜんちょうぼうてい)
臨済禅師は、当時各地からやってくる行脚の僧たちに向けて説法をなされていました。
そのお説法を集めたのが『臨済録』の示衆です。
示衆の冒頭には、そのような行脚する修行僧達に、「真正の見解」を持つ事の大切さを説いています。
正しい見地、正しいものの見方であります。
この正しい見地とは、臨済禅師によれば、今このわが目の前で説法を聴いているあなたたちこそが、祖師であり仏であるのだということなのです。
それを信じることが出来たならば、もはや何かを求めて行脚する必要のない無事の人となるのだと説いたのです。
祖師や仏とは何か、それを「你面前聴法底」であると示されました。
これは、あなた、わが目の前でこの説法を聴いてるものということです。
平たく言えば、今ここにいるみんなが仏陀と同じだというのです。
あなた方が一人一人が祖師と変わらないというのであれば、
まだ分からぬでもありません。
皆それぞれ努力して修行すれば、仏法を伝える祖師のようになることは可能でしょう。
しかし、仏となると、話は別であります。
もとも仏教では、仏とは、誰にでもなれるというものではありませんでした。
仏陀は、お釈迦さまだけであって、我々はいくら修行しても目指すもは阿羅漢でした。
それが、大乗仏教になって、皆人は仏心仏性があると説かれるようになってきていました。
そうはいっても、その仏心仏性は、煩悩の雲に覆われていて、たくさんの戒律を守り、膨大な経典を学び、長い間精神を鍛錬する修行を経てようやく、悟りが開かれると説かれていたのです。
その長い間というのは、幾世にもわたって輪廻転生を繰り返して、その果てに達せられるというものでした。
そんな教えが、中国に入って来たのですが、馬祖道一禅師は、そのような迂遠な考え方ではなくて、「即心即仏」、まさにこの心こそ仏であると説いたのでした。
馬祖道一禅師の教えを受け継いだ臨済禅師は、「心」や「性」というよりも、もっと具体的な生身の体に現れていることを強調されたのです。
そこで、今この目の前で話を聴いているもの、それだと示されました。
折から、ローマ教皇が来日されて、新聞などにも取り上げられています。
ローマ教皇の本についての紹介で、「十二億の信徒を率いる神父」と書かれているのがありました。
こういう感覚ではないのです。臨済の教えでは、みんなが仏陀なのです。
一人一人が仏陀であるという教えは、素晴らしいものです。
誰か超越的な存在を認めて、皆がそれに従うという教えではなく、一人一人が光り耀くという教えなのです。
(雪安居月並大摂心提唱より)
横田南嶺