学人(がくにん)
禅の語録の中で、「学者」とか「学人」という言葉がよく出てきます。
「学者」と書いてあるからといって、今日の大学の教授や研究者のことをいうわけではありません。
文字通り、仏教を学ぶ者であり、仏教を学ぶ人という意味です。
ですから、『臨済録』の中で、「学人」とでてくれば、当時の臨済禅師のお寺で仏教を学んでいる修行僧のことを指しています。
ところが時代が進むにつれて、それぞれの分野が細分化されるようになって、学問は学問、実践の修行は修行と別々になってきました。
さらに近年になると、学問の世界と修行の世界とが、お互いに相容れないような関係になってきていました。
元来、学ぶということは、書物や経典をよく研究して、更に実践も行うという全体の営みであったはずです。
お互いに別々なものになってしまっては、生きた「学び」ではなくなってしまうように思い、最近我々禅の実践を主にしている者も、謙虚に学ぼうと思って、駒澤大学の小川隆先生にお願いして毎月『臨済録』の講義を受けています。
批判もあるのかもしれませんが、なんと言っても私自身が大きな学びを得る事ができています。
毎回講義を拝聴するたび毎に、新たな発見があり、学びが深まっていると感じています。
『臨済録』の読み込みが一層深まったと感謝しています。
禅を学ぶ場合、体験が大切なのは言うまでありませんが、体験を過信してしまうのも問題があります。
やはり謙虚な学びが大切であります。
学ぶ事によって新たな発見があり、それが喜びや楽しみになってくるのです。
雪安居の月並大摂心は、本日(二十六日)で終了しますが、すぐに十二月一日からは臘八の大摂心となります。
一年でもっとも気を引き締めて修行する時であります。
寒さもつのりますが、油断のないように精進を願います。
(雪安居月並大摂心摂了の提唱より)
横田南嶺