人惑(にんわく)を受けざらんことを要す
禅文化研究所刊行の山田無文老師が提唱された『臨済録』は、今もわれわれ臨済の教えを学ぶ者にとっては、何よりの名著であります。
その本の帯に、「臨済がみんなに求めるところは、人にだまされるなということだ。」と書かれています。
更に「学問にだまされるな、社会の地位や名誉にだまされるな。外界のものにだまされるな。何ものにもだまされぬ人になれ、それだけだ。」と記されています。
『臨済録』の示衆のはじめのほうに、
「山僧が人に指示する処の如きは、ただ你が人惑を受けざらんことを要す」とございます。
「いま私が君たちに言い含めたいのは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ」という意味です。
この「人惑を受けるな」という言葉が、無文老師の本の帯に説かれているのです。
遠くさかのぼれば、仏陀が『カーラーマスッタ』という経典の中で、「人から聞いたこと、古い言い伝え、世間の常識、あるいは文字になっているもの、そういうものを鵜呑みにしてはいけない。想像、推測、外見、可能性、あるいは師の意見、そういうもので教えが真理であると決めつけてはいけない。」と説かれています。
人の言葉に惑わされるな、振り回されるなと言われて、なるほど、その通りだ、人の言葉に惑わされていてはいけないと思った時点で、それは「人の言葉に振り回されるな」という言葉に、すでに振り回されているのです。
なるほど、惑わされてはいけないと思って、惑わされないようにしているのは、既に惑わされているのです。
ですから、惑わされないようにしようと思っているのと、惑わされない状態というのは、異なるのです。
わずかの違いかもしれませんが、これが大きな差を生じます。
ありのままということも同じで、ありのままでいいのだ、ありのままでいようと思っているのと、ありままの状態とは異なるのです。
この違いを知らなければ、間違いをおかしてしまいます。
(雪安居月並大摂心提唱より)
横田南嶺