僧堂提唱
殊勝、自(おの)ずから至る
『臨済録』の中に、「殊勝を求めんと要(ほっ)せざれども、殊勝自ずから至る」という句があります。
殊勝には、「ことにすぐれていること」「敬虔な気持ちになること」「けなげなさま、感心なこと、神妙」などという意味があります。
岩波文庫の訳には、「至高の境地を得ようとしなくても、それは向こうからやって来る」となっています。
学問ができるということも、戒律を立派に守っているということも、素晴らしい悟りを開いたということなども、殊勝といえるのでしょう。
仏法においては、なんといっても、この輪廻からの解脱を意味しています。
なにも解脱を求めなくても、ひとりでに解脱しているとでも訳しましょうか。
臨済禅師も、解脱を求めてきた修行者に対して、「痴人、你ら三界を出て什麼処(いずこ)にか去(ゆ)かんと要する」と仰せになっています。
先日読んでいた『盤珪禅師語録』に、
「諸仏の心と人々の心と二つなし。然るに、悟りたいと思い、或いは自心を見附けんと思いて、修行用心するは、又是誤なり」と示されてあるのと同じであります。
我々の心が仏の心、今いるところがそのまま解脱の場であるのです。
解脱といっても、どこかに行くというものではありません。
仏心は三界に満ちあふれていて、どこにも行きようがないのです。
ただ、そのことを実感し体得するのみなのです。
(雪安居月並大摂心提唱より)
横田南嶺