生死に染まず
『臨済録』の示衆のはじめに、「今時、仏法を学する者は、且く真正の見解を求めんことを要す」とあって、今仏法を修行する者は、なによりもまず正しい見地をつかむことが肝要であると示されています。
正しい見地とは、お釈迦さまの教えで言えば、八正道の正見にあたるでしょう。
正しい物の見方こそ、仏教でもっとも大切にしているところです。
その正しい見地が得られたら、「若し真正の見解を得れば、生死に染まず、去住自由なり」と続いています。
岩波文庫本には
「もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることなく、死ぬも生きるも自在である」と訳されています。
「生死」とは、生まれて死ぬこと、そしてそれを繰り返す、輪廻を指します。
お釈迦さまの教えでは、その輪廻からいかに解脱するかが一番の目指すところでした。
しかし、大乗仏教になってくると、生死をことさらに厭うのではなく、「生死即涅槃」という考えになってきました。
『景徳伝灯録』の大梅法常の章に、夾山と定山との問答がございます。
定山が、「生死の中に仏無くんば即ち生死に非ず」と言いました。
それに対して、夾山は「生死の中に仏あれば即ち生死に迷わず」と言いました。
二人で論じ合いながら結論が出ずに、大梅法常を訪ねるのです。
「生死の中に仏あれば即ち生死に迷わず」というのは、わかりやすい教えです。
この迷い苦しみの生死の中に、仏法の教えを学べば、生死の中にありながらも生死に迷うことがないというのです。
定山の方は、生死と仏と二つに分けるから迷いがあるのであって、生死に対して仏なるものを置かなければ、生死も問題ではないというところでしょう。
いずれにせよ、生死を問題にしながらも、単にそこから解脱するというのではなく、生死のなかでどう生きるかが問題になってきています。
後に道元禅師などは、この二人の問答を引きながら、ただし、夾山と定山との言葉が少し異なって引用されるていますが、
「この生死は、すなはち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち 仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛のいのちをうしなうなり」と、『正法眼蔵 生死の巻』にお示しになっています。
この生死するいのちが、そのまま仏の御いのちだというのです。
この生死を厭って捨てようなどすれば、仏のいのちを失うのだといいます。
そうかといって、生死に執着しても、仏のいのちを失うことになってしまいます。
ですから、生死の中にありながら、その生死に染まることなく、行くもとどまるも自由であることを臨済禅師は説かれたのであります。
古くは、百丈禅師が、「生きんと要せば即ち生き、死なんと要せば即ち死し、去住自由なり」と示されたように、生死に執着しない有様を説いたのでした。
では、その生死にとらわれずに自由になるには、どうすればいいのかについて、次の所から説かれています。
(雪安居月並大摂心提唱より)
横田南嶺