ローマ教皇来日
十一月二十三日、ローマ教皇が来日されます。
「ローマ教皇の来日に寄せて」と題して、二十一日の毎日新聞に若松英輔先生が寄稿されていました。
いつもながら、若松先生は内容の深い文章を書かれます。
そのなかに、教皇に就任されて間もない時期に行われたあるインタビューの言葉を引用されていました。
「教会は、戸を開けて人々が来るのを待っていて、来れば受け入れるだけではだめです。新しい道を見出す教会、内に籠もるものではなく、自分から外に出て行き、教会に通わなくなった人々や無関心な人々のところに出かけていくような教会でなくてはならない」という言葉を紹介されています。
それを受けて若松先生は、今回の教皇の来日を、
「彼はキリスト者あるいは他の宗教でも信仰を持つ者たちだけのために、ローマから「出向いて」来るのではない。信じるという営みの意味を見失いつつある人々と巡り会うためにくるのである」と書かれています。
禅寺などは、長い間来る者は拒まずという姿勢でやってきました。
この頃は、門を開けることもなく、墓参と寺にご用の方以外は、入れないように門を閉ざすところもあります。
そんな時代なればこそ、このような教皇の言葉には胸打たれます。
特に禅宗では、今も外に出向いて話をすることなどを、よく思わぬ傾向があります。たとえ頼まれたとしても、断って出ないのが美徳とされるところがあります。
ですから、私のように、ご依頼をいただくとできる限り出向いて話をしている者などは、禅の世界ではよく思われないのです。そんなことは百も承知で、愚かな自分には、高尚なる禅僧のまねなどできようもなく、これしか出来ることはないと思って勤めています。
しかし、あまりに日程が混みすぎると、時には、気持ちが萎えてくることもないではありません。
そんな時に、このようなローマ教皇の崇高な志に触れると、大きな力をいただきます。
思えば仏陀も、寺に籠もるのではなく、生涯旅から旅へと教えを説かれたのでした。
敬慕してやまない一遍上人も、生涯を旅のうちに終えたのでした。
すこしばかり、依頼された講演に出向くくらいで、贅沢なことを言ってられません。
教皇のお言葉に、宗教者としての原点を見る思いがするのです。
横田南嶺