僧堂における四料揀(しりょうけん)
僧堂に掛搭しますと、まず第一には「奪人不奪境(だつにんふだっきょう)」です。
まず人を完全に否定します。己というものを完膚なきまでに叩き壊します。
庭詰がそうでしょう、玄関に頭を下げ続けて、今まで学んだもの、積み上げてきたものをすべて奪います。
毎日毎日叱り続けて、人を完全に奪います。これが僧堂の大事な処です。
教育でも、はじめから好きにどうぞと言うのでは、わがままになるだけであります。まずは徹底して個人を否定します。
しかし、それだけでは、先輩の言う通りにしか動けない、主体性の無い人間になってしまいます。
そこで、更に「奪境不奪人」(だっきょうふだつにん)です。私も僧堂に掛搭した頃に、老師から言われたことがあります。
「今は新到で、堂内の末単で、毎日毎日叱られ通しであろうが、いいか、禅堂の単布団に坐ったら、たとえ禅堂の隅っこで坐っていても、天下の主になったと思って坐れ、隅っこで小さくなって坐ったらいけない」と教えられて、大いに感動したことがございます。
たしかに、単布団にどん坐ったら天下の主です。
自らが主となって、工夫して努力するのです。
しかしながら、そんなところにとどまっていては、鼻持ちならぬ禅僧になってしまいます。自由が効きません。
更に臘八の大摂心を体験して、もう外の世界も我も無くなったところを体験することです。
臘八をやっていると、禅堂も規矩も世界もありはしない、坐っている自分すらいなくなってしまう、「人境倶奪(にんきょうぐだつ)」の世界です。
「我も無く人も無ければ大虚空、ただ一枚の姿なりけり」です。無字三昧の世界です。
この人境倶に奪いきるところは、臘八の大摂心の醍醐味であります。
これがあるから、禅は強いのです。無に徹した者ほど強いものはありません。
そして、それで終わるのではありません。最後には、人も境もともに生かす世界、「人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)」です。
僧堂でいえば、臘八もすんで冬至冬夜になりますと、人も生かし我も楽しむ世界です。
何も否定しない、我も人も大いに生かし合う、お互いの境遇を語り合ってお互いを認め合う世界です。
これがあるから、禅堂で同じ釜の飯を食った者同士はいつまで経っても、親しいものであります。
僧堂の修行にはこの四料揀がちゃんと具わっています。
(僧堂雪安居月並大摂心提唱より)
横田南嶺