如法(にょほう)
十八日の月曜日は、湯島の麟祥院にて、小川隆先生の臨済録講義を拝聴しました。
毎回、新たに学ぶことがあるもので、今回は、特に「如法」という言葉について深く学ぶことができました。
『臨済録』の中に、「道流、汝、若し如法ならんと欲得(ほっ)すれば、直に須らく是れ大丈夫児にして始めて得(よ)し。」とあります。
岩波文庫の『臨済録』には、「諸君、もし君たちがちゃんとした修行者でありたいなら、ますらおの気概がなくてはならぬ」と訳されています。
「如法」を「ちゃんとした」と訳されていることが分かります。
「如法」を『広辞苑』で調べると、「仏の教えの通りであること、法式に合っていること」という解説があります。
『禅学大辞典』には、「仏祖の規定した法規のように動作すること。法にかない、理にかなうこと」という説明があります。
逆に「不如法」となると、「叢林の規矩に違反した所業」とありますので、「如法」の意を、規則の通りに行うこととして使われています。
しかしながら、『臨済録』においては、何か特別の規範に随うような意味ではなくて、小川先生の解説によれば「我が身に、もともと具わっているものを、実感し体感すること」であるというのであります。
「大丈夫児」というのも、特別立派な男性というよりも、生まれながらの仏であるところの、過不足のない人間という意味であるとご教示いただきました。
馬祖道一禅師の教えを受け継ぐ臨済禅師は、本来仏であることを重視しています。
日常の動作に、仏としてのありようが顕現していると説かれます。
そのように、我が身に具わっていることを実感し体感すること、これが「如法」という意味であり、それは「無事」ということにもつながるという小川先生の解説に深く納得することができました。
単にお手本通りであるという「如法」ではなく、自らに具わっていることを自覚することだと理解を深められました。
すなわち、「法」とは、外に求めるものではなくて、自らの身に具わっていて
二六時中活動しているものなのです。
学べば学ぶほど、深くなってまいります。
横田南嶺