「象をなでる」
象をなでる
長阿含経にこんな話があります。鏡面王という人物が十人の盲人を集めて象にふれさせました、
盲人達はそれぞれ鼻に触れたり、足に触れたり、耳に触れたり、しっぽにふれたりしました。
そうして象とはどんなものであったか、聞いてみますと、盲人達は、それぞれが鼻に触れた者は
曲がった轅のようだと言い、牙にふれたものは象を杵のようだと言い、
耳に触れた者は象を箕のようだといい、頭に触れた者は象を鼎のようだといい、
背に触れた者は象を丘阜のようだといい、腹に触れたものは象を壁のようだと言い、
後ろ足に触れたものは象を樹のようだと言い、膊(膝)に触れたものは象を柱のようだと言い、
前足に触れたものは象を臼のようだといい、尾に触れたものは象を綱のようだという話です。
とある老師は、さらに加えて、今の学者はもはや象に触れたものはいない。
象の糞に湧いたウジ虫の研究をしていると痛烈に仰せになっていました。
われわれも仏法や禅に参じながら、どれほど本質を見ているのでしょうか。
ほんの一部分に触れただけで満足してしまっているのではないでしょうか。
少しでも全体像に近づくには、どうしたらいいのでしょうか。
それには、今自分が得たものは、まだまだ十分ではないと、
常に自らを否定していくことを繰り返すしかありません。
まだまだ、こんなものではない、こんなものではないと、
どこまでも求めてゆくことであります。
(平成30年10月21日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)