信仰の力
『武渓集』というような、禅の語録を読んでいて、天神さまを詠った漢詩がいくつも出てきて
不思議に思うかもしれません。昔は神仏習合であった名残でしょうか。
神さまも仏さまも一つとして信仰していたのでした。
天神さまといえば、菅原道真公です。道真公が右大臣までなりながら、
讒言にあって太宰府に左遷されて、失意のうちに亡くなります。
その後、道真公の左遷に関わった者が次々と亡くなり、とうとう御所にも雷が落ちて死者がでました。
人々はみな道真公の祟りと恐れて、道真公を右大臣の位に戻し、天満大自在天神として
お祀りするようになりました。
作家の童門冬二さんは、歴史を動かすのは怨みであると言われていますが、
怨念というのは恐ろしいものです。
しかし、日本の神さまというのは不思議なもので、この怨念の道真公が神さまと祀られます。
そして学問の神さまとして信仰されるようになります。
日本の臨済禅において大事な白隠禅師も、若い頃にどうしたら地獄の苦しみから脱せられるか悩んで、
母親から、あなたは丑年の丑月、丑の日丑の刻に生まれたから、天神さまと縁が深い、
天神さまを拝むようにと教えられて、一心に天神さまを信仰されました。
天神さまは、本地仏が観音さまでありますので、白隠禅師は、天神信仰から
観音信仰へて転じてゆきます。観音さまを拝むことから法華経へとつながってゆき、
衆生はみな本来仏であるとの目覚めを得られます。そこから、ご自身が観音さまになって、
人々に広く『延命十句観音経』を弘められました。
道真公の怨念が、天神さまになり、天神さまが観音さまになって、
白隠禅師の教えへと繋がっているのです。
一念の怨みは恐ろしいものですが、これが神にも仏にもなる世界があるのです。
白隠禅師なども、修行時代に幾度か挫折しそうになるのですが、
神仏を信じる信仰の力によって乗り越えておられます。
この頃は、セルフコンパッションや自慈心などということの大切さが説かれていますが、
昔は、神仏を信仰することによって、神仏が見守ってくれているから大丈夫、
きっとよい方向に導いてくださると安心感をもって修行できたのでしょう。
神仏を信じることによって自然と自慈心が養われていたのだと思うのであります。
(横田南嶺老師 『武渓集提唱』より)