はじめは仁王(におう)のように
蜆子(けんす)和尚もそうですが、唐代の禅僧の様子を学んでいると、
実に大らかで自由で、ただお腹が減ったらご飯を食べ、くたびれたら眠るという、
ありのままの暮らしをしていることが分かります。
しかし、我々がそれをそのままマネをすればいいかというと、
そうはいきません。
臨済禅師なども、仏法は何も特別工夫することではない、
服を着たりご飯を食べたり、大小便を出すだけだと言っていますが、
ご自身体究練磨して、ようやく気がついたのだとも仰っています。
江戸期の禅僧鈴木正三は、そのへんを仏像に譬えて分かりやすく説いてくれています。
お寺に入ると、門のところには仁王さんがおまつりしています。
或いは十三仏でもはじめは不動明王です。
修行も、はじめは仁王さんや不動さんのような気迫でのぞまなければならないと説くのです。
そうして、修行していって、最後にご本尊の観音さま、如来さまのようになるのだということです。
坐禅も、はじめのうちは、仁王さんのような気迫で臨むのです。目をキリッと開いて、
拳を握って歯をくいしばって、自分の欲望や妄想や眠気や弱さに負けてなるものかと、
気迫を持って坐ります。最初から、柔和にはいかないものであります。
そうして年月を経て修行していくと、段々と角が取れていって観音さまのように、
如来さまのようになってゆくのです。