蚊の大軍に襲われて
釈宗演老師
釈宗演老師は、セイロンに行って仏教の原典を学び、その帰りにタイ国に寄って
戒律を受けようとされました。残念ながら、タイ国での願いはかなえられなかったのですが、
そのタイに行く船で、自分の前半生の修行の力を試す好機に会いました。
それは、すでに旅費も尽きかけて、船に乗っても甲板の上で過ごすという有様でした。
船は、バンコクのメナム河の河口で低潮の為にとどまりました。
夕暮れから、気圧が低く、雨が降り出しそうで降らず、蒸し熱くてどうしようもない状態でした。
そこに、無数の蚊の大軍が襲ってきました。船室に入れない宗演老師は、
甲板の上で、逃れようもありません。手で追えば、足に蚊が群がり、足を払えば、
手に群がるといった有様でした。どうにもならなくなって、宗演老師は、決意しました。
よし、この蚊の群れに、自分の血を施してあげようと。今まで、自分は幼少から出家して
何の孝行も出来なかった。多少修行したつもりでいたが、蚊の大軍に襲われて
心を乱してしまうとは、いったいどういうことか。こんなことなら、
いっそ、蚊のお腹がいっぱいになるまで血を吸わせて施してあげようと思ったのでした。
そのように意を決して、甲板の上で素っ裸になって、坐禅をしました。
もちろん蚊の大軍は容赦なく襲ってきます。坐っていると、
段々蚊と自分と相和してゆきました。暑さも渇きも感じなくなりました。
なんとも言えぬ心地好い心境になってゆきました。
そんな折に、雷が一声鳴り響き、にわか雨が勢いよく降ってきました。
頭から滝のように水が流れました。
ふと坐禅から覚めて、当たりを見ると、真っ赤なグミの実がまわりに
たくさん落ちているではありませんか。何かと思って、よく見ると、
それはグミではなく、血をお腹いっぱいに吸って死んだ蚊の群れだったのです。
このように、甲板の上で、蒸し熱い中、蚊の大軍に襲われて逃げ場もない中で、
「よし、蚊に血を施してあげよう」と意を決して坐禅して、
深い心境に達することができたのでした。
逆境から逃げずに、むしろその中に入り込んでゆく生き方であります。