「平平に体究し閒閒(かんかん)に体究す」一日一語155
横田南嶺老師が昨日の臘八大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
確かに気合を入れて加熱してやらなければ、臘八なんかは乗り越えることは
できません。しかし、これは、白隠禅の弊害の一つであろうかと
思いますが、全部、成り切れ、成り切れ一枚じゃと言って、そうして、
成り切ったと言って自分で大きな顔をして偉そうにしている。
自分は見性した!大悟したと言って大きな顔をしてるが、実は、
世間の邪魔になっていないか。それは、お湯につかってぶかぶかしているより
まだ、ましだろうと思いますけれど、問題ではあります。
仏光国師の言葉に「平平に体究し閒閒(かんかん)に体究す」とあります。
これは、どういう修行の在り方を言っているのであろうか?
これは、馬祖道一禅師の言われた「平常心これ道」というのが、ここに
出ているのでないか?
白隠禅があったおかげで、禅の命脈が今日に伝わっているいます。
しかしながら、白隠禅も250年も経ってくると様々な弊害も出てくる。
白隠一辺倒にしがみついていたのでは、このような、今、申し上げたような
過ちを犯していることはないだろうか。
禅の原点は、どこにあったであろうか?正しい仏典と照らし合わせて
それでも、間違うことのないものは、どこにあろうか?
五蘊皆空を体得するということは、どういうことであろうか?
五蘊は、皆、空なりと体験して、一切の苦厄を度される、救われるとは
どういうことであろうか?
経典語録を参照しつつ、禅定を怠ることなく、それでいて、
「平平に体究し閒閒(かんかん)に体究す」です。
閒というのは、心静かな様子です。私が今、自分の公案であると
思っているところは、こういう所であります。
そんな古人が力をも費やさず、心をも費やさず、身も心も
仏の方に投げ入れて、仏の方より行われていく、これを実証していく。
「平平に体究し閒閒(かんかん)に体究す」です。
求めていきたいところでございます。