「五蘊皆空の実証」一日一語156
横田南嶺老師が昨日の臘八大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
臘八の間は、いつも、皆さん、修行僧とともに午前2時から
坐っている。それで、一通り、朝の独参まで終えると6時ごろなる。
それから、臘八の時だけ、一人で冷水をかぶっています。
何だかバカなことと思うかもしれないが、医者からもそんな
バカなことはやめろと言われながらもやっています。
それは、五蘊皆空(ごおんかいくう)であることを自分の身体で
実証をしたいからです。いくら坐禅をして、五蘊皆空と言ったところで
自分の身体で納得していなければ、本当のものではないといつも
思うのです。
水をかぶるというと冷たい水が肌にあたる。そこに冷たいなという
感覚が生じる。冷たいなというものに対して思いが生じる。
不快な思い、嫌な思い、こんなことはやめようというような
意識が働いてくる。
バカなことやってられるか、そして、思いによって、水をかぶる
のは、かなわんなとかいうような認識が生じてしまう。
最初は、この冷水をかぶるのも、やはり、どうしても気合でやっていましたが、
その気合だけでやっているのは本当のものではないというのを、
今日は、話をしたいと思います。
水をかぶることを冷静に観察をしていくと、別段、受想行識が働くことが
なければ、水をかぶったとしても、何の苦痛もありはしない。
別段、ただ、水をかけるだけですから、その辺の植木に水をかけるのと
同じ道理です。そんな気持ちになる。そして、それが実証できる。
また、自分で観察をしていると、感覚そのものには、そんな冷たいとか辛いとか
ということはない。今朝あたりは、自分でそれを体験できた。単なる温度差に
よって皮膚が収縮しているだけ、それだけだと。
空の身に、空の水が流れているだけで、受想行識も空であると
実証できた。
それに対して、人間は様々な受想行識という思いを増幅させてしまう。
あー!冷たい!とか、嫌だなとか、かなわんなとか、そんなことが
どんどんと増幅してくると、それが苦しみの原因となる。
そんなものは、別段空ずることができる。外のものが触れる感覚、
これだけがはっきりと感じる。冷静に観察をすれば、それで終わりです。
あー、水が肌を流れているという感覚で終わりです。
このように、あー、なるほど、五蘊皆空であるなと自分で体験をする。
それだけのことです。皆、その五蘊というものを作り上げて、その中で
いるものでしから、五蘊の世界同士がお互いに対立してしまう。
五蘊皆空を自分の身体で実証をしていくことは、快活なものです。
私も最初のうちは、気界丹田に力を入れて気合でやっておりましたが、
気合だけでは本物ではないと思うようになり、淡々と冷静に見つめて
色受想行識を空じて、水が肌の上を流れていくだけと気づきました。
そうすると、いろいろなものに動じなくなる。どんなことでも
平々淡々と立ち向かっていくことができる。
そこから本当の般若波羅蜜、本当の智慧が出てくるのではないでしょうか。