「悟ったことをも振り捨てていく気力」一日一語154
横田南嶺老師が今日の臘八大攝心で提唱されたことをまとめてみました。
公案(禅の問題)を振り捨てる、悟ったことをも振り捨てていく気力、
これがまた、大事なところであります。
公案というものをどのように修行していったらよいか?あるいは、
私たちは、どんな間違いを犯しがちであるかということを
円覚寺開山・仏光国師 無学祖元禅師は、語録の中で説いてくださっています。
「無所得」つまり、何かを得たいと思う心、これも、最初のうちは、
これがなければ、何の道も始まりませんけれど、しかし、これが、また、
執着のもとになることもあるんだということです。
何か得たい!何か得たい!ということが、かえって、また、執着のもとに
なってしまうこともある。
何か得たいと思って、頭の中だけで、禅について、公案について、
仏道について考えてばかりいたり、また、頭の中で、他のものと比較して
「あっちはこうだ、こっちはこうだ」と考えていたならば、
たとえ、「あー!なるほど!」と思うことがあったとしても、それは、
一時の浮ついた妄想にしか過ぎない。
あるいは、仏道の上から言えば、「あー!なるほど!」と思うことが
あったとしても、それは、つまずきにすぎないと
仏光国師は、仰せになっています。
例えば、それは、蒸し風呂に入ったようなもので、サウナの中に入って
ぐっと辛抱、我慢をしてから、パッと外に出ると、「ふっ」と息を吐いて、
やれやれ、身体がすっかり軽くなったような気がして「あー、自分の
病気は無くなったようだ」とか、「自分は健康になった」とか
「自分は、もう、悟った」というような気になったものだ。
それに対して、仏光国師は、それは、間違いだとはっきり仰せになっている。
しかし、似たような間違いを人は、犯してしまいます。
公案の修行も似たようなもので、長い間、ずっと公案をやっている。一生懸命、
長いこと努力をしている。禅堂に長いことずっと坐っているなど、
長いことやっていると、意識が恍惚してくる、いわゆる、朦朧として
移り変わっていく。
すると、突然に忽然として、意識が断絶、途絶えてしまう。
あたかも、意識の働きが空に雲が浮かんだり消えたりするがごとく、
幻影を見たり、聞いたりする体験をする。
それで、これまで一生懸命、長い間、やってきたものですから、
「はっ!自分は悟った!」と思ってしまいますが、それは、一時的な
心理変化を体験したに過ぎないのです。
仏光国師もそういう体験をされているが、それは、単なる、通過儀礼なのです。
そういうものがなければ、深い禅定には入れませんが、その途中の景色に
とどまって、悟った気になって、「自分は、悟った!」と言い出す。
それは、妄想の花が妄想の実を結んだだけのことにしかすぎない。
あるいは、「自我意識のかたまりが砕け落ちた」ということを言い出す。
あるいは、「天と地がひっくり返ったような体験をした」とか「寒中でも
汗をかいた」とか「寒中、冷たい水をかぶっても、平気でござる」と
うそぶくのもこの程度の類です。それは、たいしたことはない。
あるいは、「この宇宙、世界が消えてなくなった」と言い出す。
みな、こんなことは、本当の悟りではない。地面に足のついた本当の悟り
ではない。
仏光国師は仰せになっている。浮ついた心が様々な不思議な現象を
見ているようなものであると。そんなことでは、本当の仏様の悟りの
心境を体得することは到底できない。
浮ついた心が様々な現象を見るがそんなものは、ことごとく、
否定して否定して、振り捨てて、振り捨てていくことが肝心だ。
そんなものにひっかかっていてはいけないという気力を得ることが
重要だ。
そんな様々な心境の変化に執着、とらわれて、自慢していることでは、
話にならない。そうしておいて、自分は、禅僧であるとがっと眉を
釣り上げて、目を怒らせて、いかにも、禅僧らしい、いかにも、
悟ったような顔をしているが、その腹の中を覗けば、何にも
わかっていない。
求める心や執着しようとする心をやめることが肝腎であります。